「どうしたの?突然」

ぺこりと下げた頭を元に戻すまで待ってから、歌音は不思議そうに首を傾げた。

光としては突然ではなくとも、言われた方からすれば疑問を抱くのは当然だ。

テニスコートから流れて来る歓声に釣られて、幾人かの生徒が傍を横切って行くのに構うことなく、少年は少しだけ苦みのある表情で言を紡いだ。

「覚えていないかもしれませんけど、前に歌音先輩、俺に言ってくれたんです」

それは七月に入ったばかりのこと。

今とは異なり、カラリと乾いた空気と汗を促す気温に支配されたあの日。

頭上に広がる曇天が、身内の中にぶちまけられていた、あの日だ。

光は。

秘密を抱える身を後ろ暗く感じ、理由の見えない陰鬱な色に視界を塞がれていた。

いつの間にやら身近に思っていた存在の欠落に、怜悧な痛みを覚えて呻き声を殺していた。


――長谷川くんは、きっともう、アッキーのことを友達だと思っているから、悲しくなるんじゃないかな


本当は分かっていたのに。

心の中に構築されつつあった思いを、知っていたのに。

目を逸らした。

見えないふりをして、存在を消してしまおうとした。

それは初めて芽生えた「調査員」とは異なる気持ちで、「調査員」である己には不必要なものだったから。

持ち得てはならぬものだったから。

痛みは恐ろしい速さで全身を浸食し、いつしか声も出せぬほどの息苦しさに蹲った。

進むべき道への標が見えなくなって、どこに向かうのが己の正解なのか分からなくなって行く。

こちらに進むべきだと訴える理性と、あちらに進みたいと呟く本能。

歌音のセリフは、自分の心と向き合うきっかけをくれたのだ。

光の真実は、別にあるのではないか。

高らかな主張以外にも、何かを求める小さな悲鳴があるのではないか。


――よく考えてみて


歌音は、そう言った。

黒に染まった瞳を頼りなく揺らしたのは、困惑に突き落とされたからではない。

与えられた指針を、理解出来なかったからでもない。

今なら分かる。

本心を看破された居心地の悪さ、羞恥心、罪悪感。

無意識下で強襲したのは様々な思い。

己の願望を屠りかけていた事実を、突きつけられたからだ。

「歌音先輩の言う通りだったんです。俺はあのとき「仁志と友達になりたい」って思っていました。だから、避けられていたことが本当に嫌で、きつかったんです」
「うん」

数か月前に遡りながら伝えれば、相手は優しい眼で光を見つめていた。

澄んだ湖の色をした虹彩の中には、少しだけ照れた様子の少年がいるはずだ。

自分の影を映していた視界を上げて、光は己の姿を見つけるかのように、歌音と視線を結ぶ。

確かな輝きを宿らせた眼鏡の内側の瞳は、もはやぶれることもない。

「俺、仁志と友達になりました。先輩のお陰です」
「長谷川くん……」
「話しを聞いてくれて、気付くきっかけをくれて、ありがとうございました」

年相応の誇りかな笑顔を浮かべた光に、相手は一瞬だけ目を見張ったあと、心からの祝福と慈愛を込めて、ふんわりと頬を綻ばせた。




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