◇
「どうしたの?突然」
ぺこりと下げた頭を元に戻すまで待ってから、歌音は不思議そうに首を傾げた。
光としては突然ではなくとも、言われた方からすれば疑問を抱くのは当然だ。
テニスコートから流れて来る歓声に釣られて、幾人かの生徒が傍を横切って行くのに構うことなく、少年は少しだけ苦みのある表情で言を紡いだ。
「覚えていないかもしれませんけど、前に歌音先輩、俺に言ってくれたんです」
それは七月に入ったばかりのこと。
今とは異なり、カラリと乾いた空気と汗を促す気温に支配されたあの日。
頭上に広がる曇天が、身内の中にぶちまけられていた、あの日だ。
光は。
秘密を抱える身を後ろ暗く感じ、理由の見えない陰鬱な色に視界を塞がれていた。
いつの間にやら身近に思っていた存在の欠落に、怜悧な痛みを覚えて呻き声を殺していた。
――長谷川くんは、きっともう、アッキーのことを友達だと思っているから、悲しくなるんじゃないかな
本当は分かっていたのに。
心の中に構築されつつあった思いを、知っていたのに。
目を逸らした。
見えないふりをして、存在を消してしまおうとした。
それは初めて芽生えた「調査員」とは異なる気持ちで、「調査員」である己には不必要なものだったから。
持ち得てはならぬものだったから。
痛みは恐ろしい速さで全身を浸食し、いつしか声も出せぬほどの息苦しさに蹲った。
進むべき道への標が見えなくなって、どこに向かうのが己の正解なのか分からなくなって行く。
こちらに進むべきだと訴える理性と、あちらに進みたいと呟く本能。
歌音のセリフは、自分の心と向き合うきっかけをくれたのだ。
光の真実は、別にあるのではないか。
高らかな主張以外にも、何かを求める小さな悲鳴があるのではないか。
――よく考えてみて
歌音は、そう言った。
黒に染まった瞳を頼りなく揺らしたのは、困惑に突き落とされたからではない。
与えられた指針を、理解出来なかったからでもない。
今なら分かる。
本心を看破された居心地の悪さ、羞恥心、罪悪感。
無意識下で強襲したのは様々な思い。
己の願望を屠りかけていた事実を、突きつけられたからだ。
「歌音先輩の言う通りだったんです。俺はあのとき「仁志と友達になりたい」って思っていました。だから、避けられていたことが本当に嫌で、きつかったんです」
「うん」
数か月前に遡りながら伝えれば、相手は優しい眼で光を見つめていた。
澄んだ湖の色をした虹彩の中には、少しだけ照れた様子の少年がいるはずだ。
自分の影を映していた視界を上げて、光は己の姿を見つけるかのように、歌音と視線を結ぶ。
確かな輝きを宿らせた眼鏡の内側の瞳は、もはやぶれることもない。
「俺、仁志と友達になりました。先輩のお陰です」
「長谷川くん……」
「話しを聞いてくれて、気付くきっかけをくれて、ありがとうございました」
年相応の誇りかな笑顔を浮かべた光に、相手は一瞬だけ目を見張ったあと、心からの祝福と慈愛を込めて、ふんわりと頬を綻ばせた。
- 544 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]