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少年の足が止まったのは、視界にテニスコートのフェンスを捉えたときだ。
いつものように碌鳴学院の白いブレザーを纏った、オレンジ髪の先輩は紙束を手にしていた。
「歌音先輩」
「あ、長谷川くん。こんにちは、仁志くんの応援?」
「はい」
ふわふわのくせ毛をポンパにした歌音は、にこりと微笑んだ。
策士を連想させる逸見の笑みで疲弊した心が、清らかな笑顔に癒される。
歌音の醸し出す優しいオーラから離れがたくて、つい動けなくなってしまう。
仁志の出番が何番目か聞いていないが、もう暫く遅れても構わないだろうと思い直して、光は相手に問いを向けた。
「先輩は見回りですか?」
「ううん。今、綾瀬くんと交代して来たところ。穂積くんと綾瀬くん、逸見の三人が次の見回りなんだ」
示された数枚の紙は、見回りのシフト表や体育祭のプログラムだ。
相変わらずの仕事量に、素直に感心する。
生徒会役員には様々な特権が与えられているけれど、これだけの責務を課せられていては、まったく得をした気になれないのではないか。
過酷という単語がぴたりと当てはまる職務をまっとうする歌音たちは、仕事に対する責任感だけでなく、碌鳴学院という存在そのものを想っているのだと察せられた。
「そうでしたか、お仕事ご苦労様です。さっき逸見先輩に会いましたよ」
「乗馬だよね。すごかったでしょう?」
「はい、色んな意味で驚かされました」
目を泳がせる光に、相手は不思議そうに微笑んだ。
追及するでもなく、分からないことは分からないなりに受け入れて、こちらの負担にならぬ最良の道を選び取る。
外見は勿論のこと、十八歳という年齢にさえ見合わぬ大人びた風情の歌音は、いつだって優しさに満ちている。
何度となく彼に苦悩を吐き出して来たが、悩みの詳細を話したことはないし、訊かれたこともない。
光の痛い部分には決して触れず、穏やかに指針を示してくれるから、いつしか安心して苦しい心を告白するようになっていた。
罪悪感に溺れたときや、恐怖心に捕まったとき。
歌音の真綿で包み込むような言の葉が、光に一歩を踏み出す力をくれたのだ。
「あの……歌音先輩」
「うん?」
感慨から抜け出すと、少年は知らぬ間に落ちていた目を持ち上げて、青い輝きと向き合った。
催促もせずこちらの次の句を待っていてくれる先輩に、内側から温かなものが溢れだす。
本当は、もっと早くに言いたかった。
もっと早くに、言うべきだった。
「ありがとうございました」
そう、言うべきだったのだ。
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