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嫌味とも取れかねない微妙な発言は、実に綾瀬らしい。
仁志は今なお電気の点いた、碌鳴館の生徒会室を思い苦笑した。
もう少しだけ残ると言うから、二人で先に帰ることにしたのだが、まさか穂積もそんな称され方をしているとは思わないだろう。
勤勉に働いているのに、仕事中毒扱いだ。
「この波が過ぎれば、随分と楽になるはずだから、もうひと頑張りだね」
「そうですね」
夜が進むにつれ体感温度は下がって行くけれど、仁志は綾瀬と語らう僅かな時間を引き延ばしたくて、常よりもずっと緩やかな歩調でいた。
気付いているのかいないのか、綾瀬が歩みを速める様子もない。
取りとめもない話しを、気紛れに交わしているだけなのに、恐ろしいくらいの充足感。
平熱よりも若干高い体温で、脈拍の音が耳の奥ではっきりと聞こえる。
温かくて、幸せで、身内がいっぱいになる。
反面、叫び出したいほどの渇きも感じていた。
足りないと訴える全身が、爆発しそうな焦燥に急き立てられて、呼吸が出来なくなるほどに息苦しい。
消化のしようがない感情は、真っ赤に熟れて無残なほどだ。
今にも崩れてしまいそうな熱が、高鳴る鼓動を干上がらせて、胸の中央をじくじくと痛めつけるから。
楽になりたくて、手を伸ばした。
「ん?どうしたの」
制服の上から掴んだ綾瀬の手首は、すっきりと細かった。
力を込めれば折れてしまう繊手を、縋るように捕える己の骨ばった手に瞠目する。
やってしまった。
そう思った。
タイムリミットを意識してから、刻一刻と激しくなる焦りが、危うい均衡を崩せと命じたに違いない。
「何でもない」と、言ってしまえば後戻りが出来たのに、綾瀬を見下ろす仁志の怜悧な双眸は、切実なほどに真剣だった。
呼び掛ける、声も。
「綾瀬、先輩」
「……寮はもうすぐだよ。早く帰ろう」
「待って下さい!」
意図的だと疑わせるほどに平然と、帰路を促す相手に語気が荒くなった。
逃れようとした綾瀬を、先ほどよりも少しだけ力を込めて引き止める。
微笑む口角を下げぬ麗人は、凍りついたのではないかと思えた。
外灯のオレンジを反射した紅茶色の綺麗な眼が、仁志だけを映しだす。
潜む感情は何であろうか。
いつだって真意の読めない彼を相手に、無駄な足掻きをしても意味はない。
即座に判断を下せるほどには、綾瀬のことを知っている。
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