悔恨の欠片。




相手は教師だ。

当面の調査方針が決まったとは言え、一生徒の光が近付くにも限度がある。

担任ではあるものの、普段から親しく交流を持っているわけではないし、須藤の受け持つ化学部に所属しているわけでもない。

自然な接近を目指すならば、せいぜい授業内容を質問するくらいだが、前学期のテストで学年首位を獲得してしまった光が、教師に聞かなければ解けないような問題など習っていなかった。

おまけに、一度きりながら須藤には素顔を見られている。

千影固有の色彩や、端麗な面立ちを余すところなく晒してしまった。

彼が誤解をしたC組の田中とやらに、修学旅行の話題を振っていたとしたら、露天風呂にいたのは別人であると気付かれているはずだ。

上手く誤魔化せたとは思うが、やはり正体発覚の不安は大きい。

皮膚の内側を容赦なく這いずり回るような堪え難い感覚は、調査員としてのプライドと理性で無理矢理にでも押さえ付けられるけれど、不信感を持たれずに身辺を探る妙案は思い付かなかった。

どうしたものかと思案を巡らせていた少年は、こちらを眺める木崎の硬い表情に意識を浮上させた。

「なに」
「痛むか」
「あぁ、これ?もうあんまり痛みはないよ。湿布貼って隠しても、目立つことには変わりないからこのままにしてるんだけど、やっぱり隠した方がいいかな」

先日の緊急集会も手伝って、元会長方事件を知らぬ生徒はいない。

周囲への配慮から顔の痣を覆っていた湿布も無意味と悟り、今日からは青色の痕を外気に晒していた。

すいと伸ばされた男の両手が、労るように頬を包み込む。

傷に障らぬよう細心の注意を払った温もりが、くすぐったい。

されるがままでいた千影は、悔しげに歪んだ相手の貌に首をかしげた。

「武文?」
「……他はもう平気か?一応診たが、俺もプロじゃないからな。少しでも変だと思ったら、すぐに言えよ」

暴力に無抵抗であった体を気遣う言葉は、やる瀬無さと憤りを感じさせた。

立場上、病院での診察を受けられなかった千影の手当ては、保健医でもある木崎に任された。

骨折や深刻な内出血などもなく、幸いにも個人レベルの処置で済んだのだが、木崎としては安心することが出来ないようだった。

「大丈夫。眩暈とか吐き気もないし、問題ない」
「そうか……なら、いいんだが」
「なんだよ」

言い淀む気配を感じて、眉が寄る。

頬を撫で擦っていた木崎の掌が、首筋に滑った。

頸動脈の上で止まった指は、命の音を確かめる。

喉元に感じる他人の体温に、血の巡りが促された気がした。

「ごめんな」
「なに……」
「ごめん、千影」
「なんだよ急に」

平生、飄々とした態度の保護者からは考えられぬ、悔しげな表情に狼狽した。

ぎゅっと眉間に集まった柳眉と、殺し切れぬ本音に溢れた双眸に、何を返せばよいのか分からない。

自分を責める必要などいらない、すべては油断していた己の責任。

本来ならば、彼に余計な心配をかけることなく、自分一人で解決するべきだった。

言いたいのに、向かい合った眼は千影のセリフを求めていないのが分かって、少年は主張を発せられずに沈黙するばかり。

動揺は脈拍となって、そのまま木崎の指先に伝わっているはずだ。

触れ合いを途切れさせることなく立ち上がった男は、椅子に座ったままの千影の眼前へと膝を着く。

動けずにいる千影へと、ゆっくりと木崎の色香ある端整な面が近付いて。

「痛いの痛いの飛んで行けー」
「なっっ!?」

ちゅっと軽いリップ音が、額で鳴った。

何をされたか頭が理解するより先に、全身にザッと鳥肌が立つ。

血の気が引いて行く感覚に、唇を慄かせた。

「な、なに、なにした今ぁぁ!!??」
「どうした?昔はよくやってやっただろ」
「どこの世界に、十代後半の男にキスするオッサンがいるんだよっ!!常識を学べっ」
「昔は転んだりするたびに俺のとこに来たのに……。あの可愛いちぃはどこに行ったんだろうな」
「自我が確立する前の話を持ち出すな!と言うか、四十にもなって恥を知れっ」

羞恥から沸騰した血液は、額は勿論、顔面を真っ赤に染め上げる。

記憶も薄い頃を語られて、絶叫しそうだ。

欠片ばかり残った正気が大声を挙げさせることはないものの、荒れた物言いまでも抑制するのは不可能である。

昼時の喧騒も届かぬ保健室は、たった二人の人間が繰り広げる下らないやり取りで、生徒で溢れる平時よりもずっと賑やかだった。




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