泡沫の言霊。
いくつものアメピンでまとめた地毛の上に、真っ黒な鬘をしっかりと被せる。
軽い音を立てて更にピンで固定し、目元を覆うように長い前髪をセットする。
黒いカラーコンタクトを入れた瞳が隠れ、頬骨の上にかかる程度であれば、最後に前時代的な黒ぶち眼鏡をかけて完成だ。
これが、長谷川 光。
調査員として潜入している、千影の仮の姿。
鏡の中にいる不格好な少年を真正面から見据え、網膜に焼き付ける。
忘れてはいけない、これは調査員である千影に用意された、偽りの仮面なのだ。
この世のどこにも存在などしない、空虚で儚い幻影なのだ。
ドラッグ調査のためだけに、己はここにいる。
売人を見つけるためだけに、己は「光」になっている。
調査員であれ。
調査員でありさえすれば、千影は世界に存在できる。
「俺は、調査員だ」
言い聞かせる文言を、向き合った自分自身へ唱えれば、見目悪しき少年は苦々しく唇を引き結んだ。
己の役割を再確認する「儀式」が、日課となったのは数日前から。
こうして日々、課せられた任務を口に出さなければならない自分に嫌気がさす。
千影の中で調査員である自覚が薄れているからこそ、繰り返し自認しなければならないのだから、自己嫌悪にだって陥るというものだ。
一度調査先に潜入すれば、決して役柄を忘れなかった千影だが、もはや己の意識が変わってしまったと理解している。
意識が変化した結果、仁志 秋吉という大切な友人を得たことも分かっている。
ここに来て、必死に調査員であろうとしているのは、一重に崩壊しそうな存在意義のせいだった。
調査員でなくなれば、千影は千影でなくなる。
千影は存在できなくなる。
分かっているのに、上手く気持ちが切り替えられない。
仕事のためだけに、学院に身を置いているのだと割り切れない。
だからこその「儀式」だと言うのに。
調査員である己を殺そうとする男の言葉が、儀式を行うたびに蘇り、千影は胸の奥底に沈めた心が浮上するのを抑えられないでいた。
他者の力を当てにするのも、部外者に正体を明かすのも、同じくらいのタブーであることに気づかぬまま、少年は洗面所の鏡の前から立ち退いた。
- 528 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]