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八月に城下町で穂積と出くわしてから、立て続けにこの姿を学院の人間に目撃されている。
今回は油断していたせいもあるだろうが、正体露見の気運が高まっているのではないかと、不安にさえなる。
視線を交えたまま、今度こそすべての動きを停止した少年の前で、温泉から首だけを出した須藤はすっと目を細めた。
鋭い眼光に頬が強張ったところで、担任教師は予想外の台詞を紡いだ。
「すいません、コンタクトを外してしまって……。どこのクラスの生徒ですか?」
「……あ、田中です」
「田中?あぁ、C組の。今は教員が使用する時間ですから、生徒の出入りは禁止ですよ」
無理やり口を動かし適当に名乗った苗字を、教師は勝手に納得してくれた。
胸中の激しい動揺が、微かに和らぐ。
落ち着け。
冷静になれ。
絶対絶命ではあるものの、打つ手がないわけではない。
今まさに与えられたではないか、この窮地から抜け出す重要な情報を。
須藤がコンタクトレンズを使用していたこと。
そして、現在の時間は生徒の大浴場使用が禁止されていること。
焦燥に支配されかけた思考をフル回転させ、見つけた活路を手繰り寄せる。
「すいません、忘れていました。今、出て行きますね」
唇に乗せたのは、簡潔な謝罪だった。
脳裏に響く警鐘など素知らぬふりを装う。
須藤に素顔を見られたのは、大いに問題だ。
潜入先の人間というのは元より、ドラッグと関連があるのではないかと疑っている対象に、七月中城下町を駆け回ったこの顔を見られては、調査に影響を来たす恐れがある。
だが初めて目撃したはずの「千影」を、学院の生徒と勘違いしてしまうほど彼の視力が悪いのならば、利用しない手はない。
こちらの顔をはっきりと認識される前に、大浴場から出てしまえばいいのだ。
上手い具合に、生徒が大浴場を使用してはならない時間帯。
出て行くのは当然の流れ。
妙な素振り一つするだけで、彼に不信感を与えてしまう可能性がある以上、滅多な真似は出来ない。
ドキン、ドキンと煩い心音に苛まれながら、千影は今にも駆け出したい気持ちを堪えて、自然な速度で湯船を上がろうとした。
「待ちなさい」
「っ……」
静止の声が背中に刺さったのは、上半身を湯面から出したときである。
くっと息が詰まるも、どうにか相手を振り返る。
より一層、近く聞こえた声を怪訝に思いながら。
「あの、なんです……なっ」
最大限のさり気なさで問いかけた少年は、間近に迫った須藤に目を見開いた。
手を伸ばせば触れられる距離。
いつの間に接近していたのか、さっぱり気付けなかった。
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