思わぬキッカケ。
カランカランっと、履きなれない下駄がアスファルトを打つ。
見上げた空には下弦の月が浮かんでいる。
緩やかに流れる雲が群青と紫の中間色に染まり、月の淡い黄色を引き立てる。
この時期になると、夜の暑さも幾分和らいで、温い微風が黒髪を掠めていった。
ホテルの周りは散策コースが設けられ、そのまま他の宿にある温泉も廻ることも出来ると、出入り口の案内板に書かれていた。
ただ足の赴くままに進み、小川の上に架けられた短い木造橋のところまで来ると、稀に別の宿の浴衣を来た客の姿を見かけた。
橋の途中で立ち止まり、欄干から眼下に流れる川を見つめる。
まばらな照明では夜に浸った川や、周りの岩場や土手までを照らすことはない。
時折、月光を弾く水面が煌いて見えるばかりだ。
騒がしかった身内は、落ち着きを取り戻していた。
緩く吐息を逃がせば血が冷えていく。
もう仁志は部屋に戻っているだろうか。
光の覚悟も、木崎の承諾も、必要なものはすべて揃っている。
後は話すだけだ。
穂積との約束を守る、最初の一歩だ。
真っ直ぐな仁志に正直に告げて、光も真っ直ぐな自分を育てていくのだ。
色んな人から貰った優しさを胸に、仁志と向き合おう。
勢いをつけて顔を上げれば、向かいから酔客の二人組みが歩いてきた。
浴衣姿で随分と泥酔しているらしく、足元が覚束ない。
彼らも旅行先で浮かれてハメを外しているんだなと思い、小さく笑った。
「あ、仁志から連絡来てたりして」
ふと思いついて、光は慌てて羽織のポケットに入れていた携帯電話を取り出した。
煌々としたディスプレイには、着信もメールもない。
書置きをして来なかったから、また心配をかけてしまうところだった。
背中に強い衝撃が走ったのは、ほっと胸を撫で下ろしたときだった。
「っ……あ、わっ!」
「あぁ、すいませんねぇ……っと」
芯のない声で寄越された謝罪で、さっきの酔客がぶつかって来たのはすぐに分かった。
だが光はそれに応じるよりも、欄干から身を乗り出し川辺に目を走らせた。
ちょうど力を抜いたために、今の衝突で携帯を落してしまったのだ。
カツンッと音が聞こえたから、川に沈んではいないだろう。
機械的な白い光を岩の合間に見つけ、安心した。
あの中には生徒会役員の番号しか入っていないが、ないと色々困る。
すでに千鳥足の客が去ってしまった橋を渡り切り、土手へと降りる。
一応までにかけてあるチェーンを跨いで、浴衣の裾が汚れないよう注意しつつ、足場の悪い急斜面を慎重に下っていく。
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