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今尚残る口元の微笑と、対照的な底冷えのする双眸。
憤怒の念が玲瓏と輝く黒曜石の中で存在を主張する。
隠し切れない殺気は凄まじく、体感温度が下がったよう。
「……ぶっ」
しかしながら、どこまで容姿が秀でていても、醤油を額から垂れ流していれば冗談でしかない。
ぴちょんぴちょん、と制服を汚す調味料に、光は笑いを隠そうと顔をそむけた。
「……バレてんだよ」
「バレてなかったら、お前どんだけニブイんだよ」
「……ゴミの分際で、俺にたてつくのか?」
「いや、だから俺はお前のこと知らないし。ゴミでもないし。一回で理解しろよ、似非が」
言葉尻を整えることも忘れ、嘲りを帯びた声音で返してやる。
礼儀知らずを飛び越えて、常識知らずな男だ。
こちらが丁寧に応じてやる理由など、砂粒ほどもない。
男のコメカミがぴくりと反応する。
相当、怒りが溜まっているのだろう。
優美な笑みが、すぅっと消えた。
現れたのは、瞳と同じ。
他を制圧するような冷気を放つ、静かなる怒気を宿した貌である。
「碌鳴学院、生徒会会長……穂積 真昼だ」
ゆっくりと追い詰めるように、彼が言う。
「真昼?マヒル?……って会長っ!?」
「光、反応遅ぇっ!!」
「ガリ勉じゃねぇっっ!!どうなってんの、仁志っ!?」
「だからさっき言っただろ、会えば分かるって」
「いや、けど…すごい美形じゃんっ!期待を裏切られた気分だよっ」
どんな期待だ。
わいわいぎゃあぎゃあと、穂積そっちのけで会話を続ける二人に、男の手が仁志によってめちゃくちゃにされたテーブルを叩いた。
バンッ!と空気を揺るがせた音に、遠くからこちらを窺う野次馬の群れが、ビクリと身を竦ませる。
「あまり舐めた真似をするなよ……ゴミ虫」
押し殺した恫喝は、相手が大多数の人間ならば即刻土下座をさせてしまうほどだ。
しかしながら当の光は、ランクが上がったのかどうなのか非常に微妙な罵りに眉を顰めるのみ。
生命体になっただけ、昇格したと言えるのかもしれないが、果たして。
「舐めてるのはそっちだろ。俺が何をしたって言うんだよ。いきなり湧いて出て、人をゴミ扱いなんて」
「不愉快なものに、親切にしてやれとでも?」
鼻であしらう穂積は、どこまでも傲慢に見えた。
華奢な身体いっぱいに満たされた、もどかしさとよく似た憤り。
こちらが至極まっとうな意見を口にしているはずなのに、どうしたって通じない予感がする。
ただでさえ普段の冷静さを欠いているのだ。
光の語調が強くなった。
「存在が不愉快だったにしても、やりようがあるだろっ!」
「やりよう……?」
「気に食わないから力づくで排除するなんて、ただの傲慢だっ。そんなことも分からないのに、ご立派な役職を名乗るなよ」
食堂内に、光の声だけが反響する。
仁志ですら何も言わなかった。
いや、言えなかった。
それだけ地味な少年の発言は、的外れとは思えないものだったのだ。
「……なるほど」
幾ばくからの沈黙のあと、醤油を被った男が口元を歪めた。
「傲慢か。確かに『傲慢』だな」
「え?」
「だが俺はこの学院において、その『傲慢』を許される存在にある。『傲慢』を押し通せる力がある」
こちらの弁を理解しているとは到底思えない表情だったが、やはりと言ったところか。
彼に光の『正論』は通じない。
何故なら、この男の主張もまた『学院』に置いての『正論』なのだ。
全身を緊張で硬くした濡れ鼠に、穂積は含みを持って微笑んだ。
艶やかで贅沢な笑みに、少年は嫌な予感を覚える。
「しかしいいだろう。お前の言う『方法』とやらを考えてやる」
「なに?」
「俺にここまで歯向かった愚かな勇気に免じてだ。その脆い詭弁がどこまでもつか、見せてみろ」
その笑みは、確かに純然たる意思を孕んでいた。
早くも乾き始めた黒髪の下で、光はぎゅっと口角を引き締める。
不穏な気配に落ち着きをなくした心。
穂積の気に当てられたように、二の腕が粟立つ。
「お前、名前は?」
「言いたくない」
せめてもの抵抗と、自己防衛のためにきっぱりと返す。
「長谷川 光だ」
「ちょっ、仁志っ!?」
だが、黙秘しようとしたこちらの考えを無碍にしたのは友人だった。
見開いた目を仁志に向けると、彼はもう笑ってはいなかった。
喜怒哀楽とはまた別の。
どこか緊張したような、真剣な表情の仁志。
この姿で出会ってから、幾つもの感情を雄弁に語って来た彼だったが、それは光が初めて見るものだ。
「光、ここは危険だって言ったろ。会長が絶対権力者なんだ。隠してもすぐに分かる」
「そんな……」
硬質な音で述べる仁志のどこにも、嘘を言っている気配は見当たらない。
なんだ、それは。
どういうことだ。
生徒会会長なんて、ただの雑用組織のリーダーではないのか。
意味が分からないと顔に書いてある光を、検分するかのようにじっくりと堪能した穂積は、用件を終えたとばかりに長い足で出口へと歩き出す。
「長谷川、そう簡単に潰されるなよ。お前がこの学院に来たことを泣いて後悔してから、消えろ」
「……」
すれ違い様に与えられた不吉な言葉。
微動だにしないこちらを振り返ることなく、男は見事に割れた人垣の間を、為政者の風格を持って通り過ぎて行った。
学院に来たことを、後悔などするわけがないだろうに。
こっちは麻薬調査のために、そう仕事のために嫌々ながら転校して来たのだ。
それでも光が己の『愚行』を悔いたのは、次の瞬間だった。
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