◆
黒縁眼鏡の脇から、目元まで侵入してくる水滴。
水をかけられたのだと、ようやく理解した。
「てっめぇっ!!マジ、死ねよっっ!」
「口を慎め。俺は親切にもゴミの処理を請け負っただけだ」
「んだとっ!!」
怒りを爆発させた仁志が、真っ白なテーブルクロスを踏み付け、男の顔面目掛けて足を振るう。
それを紳士の笑みを貼り付けたままかわした相手は、流れるような所作で椅子から立ち上がった。
「食堂では騒ぐな」
「誰が騒がしてんだっ!」
「お前だな」
「発端はてめぇだ、バ会長っっ!!」
食堂のあちらこちらから、きゃーっと悲鳴が上がる。
生徒会役員同士の喧嘩に、皆どうしていいのか分からずとまどっているのだ。
子供のお遊びに付き合うが如く、迫り来る攻撃を余裕を持ってよける男に、仁志は苛立たしげに歯噛みする。
光はコレといって表情を変えることなく、濡れた鬘の臭いをかいでみた。
ちょっと臭くなったぞ、おい。
代えは一つきりなんだから、乱雑に扱いたくなかったのに。
傍らの騒ぎなど知らぬように、淡々とした少年の様子。
諦めの境地で大きな溜息をつくと、彼は何とはなしにテーブルに備えられている調味料の瓶を、一つ一つ確認し始めた。
どれも陶器の器で、衝撃を加えれば簡単に割れてしまうだろう。
幾つもある内の一つを選び取ると、光はそれの重さを確かめるように、何度か手の内で弄ぶ。
終えるや、目と鼻の先で行われる喧嘩にふっと視線を流して、瓶を持った手を振りかぶり……
「誰がゴミだ似非紳士ぃぃぃぃぃぃっっっっっっ!!!!!」
投げ付けた。
メジャーリーガーもびっくりな投球フォームで放たれた瓶は、目にも留まらぬ速さでストレートラインを飛び、男の額にクリティカルヒット。
衝撃で男の身体がみっともなくも、仰け反った。
パキンッ!と高い悲鳴と共に陶器が割れ、中身が溢れ出す。
黒く香ばしい臭い。
よほど威力があったのか、真っ赤になった標的の額から、呆然としても美しい顔に軌跡を残す。
「醤油……」
水を打ったように静まった空間で、どこからか聞えた声。
碌鳴の真っ白なブレザーに染みが出来上がって行く様を見ながら、光はさらりと言った。
「醤油がどうしても貴方のところに行きたいと言うものですから、断りきれなくて」
にこり。
これ見よがしに満面の笑みだ。
男の顔面から、ぱらぱらと醤油に混じって陶器の欠片が剥がれ落ちる。
「……お前」
「ははははははっっっ!!光、マジ最高っっ!!やっべ、超笑えるんですけどっっ!!はははははっ、はっ、けほっははははっっ!!!」
「……咽るほどかよ」
今しがたの怒りはどこに行ったのか。
床をのた打ち回り爆笑する仁志に、少し引く。
「お前、俺が誰だか分かっての真似だろうな」
「知りません。でも名乗らなくても結構です。興味ないんで」
「…っ」
「ははははっっ!!興味ねぇとかっ……会長だせぇっっ!!」
「黙れ、気違い」
「んだとっ、ゴラッ!!」
喜怒哀楽の変わりようから言えば、仁志は間違いなく気違いだ。
的確な罵倒に、光は少しだけ感心した。
だが、勿論事態は穏やかではない。
仕事優先の落ち着いた思考が光の長所だが、生憎沸点は高くない。
ここまでよく耐えたものだ。
結局のところキレてしまったのだから、元も子もないが。
男は敵意露に牙を剥きだす仁志を、煩そうに一瞥したあと、初めて光を見た。
- 29 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]