黒縁眼鏡の脇から、目元まで侵入してくる水滴。

水をかけられたのだと、ようやく理解した。

「てっめぇっ!!マジ、死ねよっっ!」
「口を慎め。俺は親切にもゴミの処理を請け負っただけだ」
「んだとっ!!」

怒りを爆発させた仁志が、真っ白なテーブルクロスを踏み付け、男の顔面目掛けて足を振るう。

それを紳士の笑みを貼り付けたままかわした相手は、流れるような所作で椅子から立ち上がった。

「食堂では騒ぐな」
「誰が騒がしてんだっ!」
「お前だな」
「発端はてめぇだ、バ会長っっ!!」

食堂のあちらこちらから、きゃーっと悲鳴が上がる。

生徒会役員同士の喧嘩に、皆どうしていいのか分からずとまどっているのだ。

子供のお遊びに付き合うが如く、迫り来る攻撃を余裕を持ってよける男に、仁志は苛立たしげに歯噛みする。

光はコレといって表情を変えることなく、濡れた鬘の臭いをかいでみた。

ちょっと臭くなったぞ、おい。

代えは一つきりなんだから、乱雑に扱いたくなかったのに。

傍らの騒ぎなど知らぬように、淡々とした少年の様子。

諦めの境地で大きな溜息をつくと、彼は何とはなしにテーブルに備えられている調味料の瓶を、一つ一つ確認し始めた。

どれも陶器の器で、衝撃を加えれば簡単に割れてしまうだろう。

幾つもある内の一つを選び取ると、光はそれの重さを確かめるように、何度か手の内で弄ぶ。

終えるや、目と鼻の先で行われる喧嘩にふっと視線を流して、瓶を持った手を振りかぶり……


「誰がゴミだ似非紳士ぃぃぃぃぃぃっっっっっっ!!!!!」


投げ付けた。

メジャーリーガーもびっくりな投球フォームで放たれた瓶は、目にも留まらぬ速さでストレートラインを飛び、男の額にクリティカルヒット。

衝撃で男の身体がみっともなくも、仰け反った。

パキンッ!と高い悲鳴と共に陶器が割れ、中身が溢れ出す。

黒く香ばしい臭い。

よほど威力があったのか、真っ赤になった標的の額から、呆然としても美しい顔に軌跡を残す。

「醤油……」

水を打ったように静まった空間で、どこからか聞えた声。

碌鳴の真っ白なブレザーに染みが出来上がって行く様を見ながら、光はさらりと言った。

「醤油がどうしても貴方のところに行きたいと言うものですから、断りきれなくて」

にこり。

これ見よがしに満面の笑みだ。

男の顔面から、ぱらぱらと醤油に混じって陶器の欠片が剥がれ落ちる。

「……お前」
「ははははははっっっ!!光、マジ最高っっ!!やっべ、超笑えるんですけどっっ!!はははははっ、はっ、けほっははははっっ!!!」
「……咽るほどかよ」

今しがたの怒りはどこに行ったのか。

床をのた打ち回り爆笑する仁志に、少し引く。

「お前、俺が誰だか分かっての真似だろうな」
「知りません。でも名乗らなくても結構です。興味ないんで」
「…っ」
「ははははっっ!!興味ねぇとかっ……会長だせぇっっ!!」
「黙れ、気違い」
「んだとっ、ゴラッ!!」

喜怒哀楽の変わりようから言えば、仁志は間違いなく気違いだ。

的確な罵倒に、光は少しだけ感心した。

だが、勿論事態は穏やかではない。

仕事優先の落ち着いた思考が光の長所だが、生憎沸点は高くない。

ここまでよく耐えたものだ。

結局のところキレてしまったのだから、元も子もないが。

男は敵意露に牙を剥きだす仁志を、煩そうに一瞥したあと、初めて光を見た。




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