◇
だからこそ、心配なのだ。
木崎が「それ」を行うと知って、今尚頭に浮かぶのは一つの事件だったから。
胸に押し寄せる圧迫感と焦燥は、まだ色褪せることなく息づいている。
「……無茶だけはしないで下さいね」
あんな思いは、もう二度としたくない。
もしあんなことがもう一度起こったら、今の狂った自分は何を仕出かすか分からない。
懇願とも取れる言葉に含まれた真意を、眼前の男は見破っていた。
当時よりもずっと余裕のある微笑を浮かべ、強い意思の灯る目で間垣を射抜いた。
「俺が何のためにマトリ辞めたか忘れたか」
「そうでした。あーあ、本当に変わったんだなぁ、フミさん」
「とっくに十年過ぎてるんだ。変わらない方がおかしいだろ」
「そうですね。でも、フミさんはいい意味で変わっているんですよ。どんどんかっこよくなっています」
「男に褒められても嬉しくねぇよ」
軽く笑いながら、相手はポケットから煙草を取り出し火をつける。
セブンスターメンソールのボックスを捉え、思わず目を見張った。
「ださいデザイン……」
「ん?あぁ、他の不味いんだよ」
「まだそれ吸ってたんですね」
彼が喫煙者なのは気付いていたが、実際に何を吸っているかまでは分かっていなかった。
何せ会うのはほとんどが仕事中だ。
嗜好品を楽しむ暇はない。
「……どっかの馬鹿が五月蝿いからな。不能になったらどうすんだっての」
「責任取りましょうか?」
「調子のんな」
ゲシッと放たれた蹴りは鳩尾に吸い込まれた。
「DVですよ……」
「お前は俺の家庭の人間か?」
「希望者です」
「生憎、千影で定員だ」
あぁ、扱いの差がひど過ぎる。
だがこんなに邪険にされるのは、自分くらいだと思うと落ち着いてしまう。
間垣もまた、流れた年月の間に変わったのだ。
恐らく木崎とは逆の、悪い方向に。
「お前もう帰れ。明日も仕事だろう」
「本当に上げてくれないんですね」
「くどい」
足で背中を押され、渋々引き下がる。
また来ますね、と言えば来るなと返されるのは予想できたから、何も言わずにマンションの廊下をエレベーターに向かって歩き出そうとした。
「康介」
「はい?」
と、不意に後方から呼びかけられる。
振り返れば扉を閉める途中の木崎が、唇で弧を描く。
「お前は必要なやつランキング第一位だ」
言うや、パタンと扉は閉められて、鍵をかける音が静かな深夜の世界にやけに響いた。
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