◇
でも、どれもこれも忘れるべき夏の記憶だ。
あの奇跡のような一時から持ち込んでいいのは、貰った思いだけ。
貰った思いで、向き合うしかない。
玄関のロックが解除されるピピッという電子音、バンッ!とやけに乱暴な扉の開閉音。
聞こえて光は眼を開けた。
ソファから立ち上がり、リビングに踏み込んで来た人物の名を唱える。
「仁志……」
「ひ、かる」
鋭い瞳がこちらの眼鏡とぶつかると、不良然とした金髪頭は信じられぬものを見る顔になり、それから表情を一変させた。
きつく眇められた双眸には確かな熱が燃えていて、体の横で両の拳が握られたのが分かる。
双肩から吹き上がる激情が光の肌を焦がせば、仁志の心の内は想像に難くない。
何せ光は逃げたのだ。
千影の部分に手を伸ばされて、恐怖心のままに暴挙とも言える行動に出た。
これで怒りを向けられぬはずがあろうか。
足取り荒く接近する仁志を見つめ返したまま、光は微動だにしなかった。
ただ歯を食いしばる。
勢いよく伸ばされた腕を避ける気もなくて、殴られる覚悟をしていたから。
「どこ行ってたんだてめぇっ!」
怒声と共に長い腕に抱き締められるとは、思ってもいなかった。
容赦のない力で骨がギシリと鳴る。
何故?どうして?
黙って逃げ出したことに腹を立てているのでは?
答えなかった正体を疑っているのでは?
予想を裏切る事態にパニックへと陥った少年は、どうしていいのか分からず、強い拘束にされるがままだ。
「仁志……?」
「俺が、俺らがどんだけ探したと思ってんだっ!!」
「あ……」
感情を爆発させた叫びに、光は目を見開いた。
曇っていた世界が粉々に粉砕した錯覚に襲われる。
自分は何て浅はかだったのだろう。
仁志のことは分かっていると思い込んでいた。
怒っていないはずがない。
何も言わずに逃亡した光に、怒っていないはずがない。
けれどその怒りは、不満や苛立ちから来るものでは決してなくて。
光の身を心配したからこそ生まれた、仲間へ注ぐ怒り。
「帰省届けの住所にいねぇ、両親のとこも電話が通じねぇ、携帯まで切りやがって……人に心配かけさせたって分かってんのかよっ!」
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