一歩目の先。




「千影、箸止まってる」
「え?……あ、ぼーっとしてた」

間垣が帰った後の夕食の席で、放心状態にあった少年は、対面の保護者にややぎこちない苦笑を返してから、自分の食事に箸をつけた。

本日のメニューは、木崎のリクエスト通り冷麺。

キムチを乗せて韓国風に仕上げた一品は、相手の報告を受けている間、一切口にしなかったせいで、スープを吸って伸びかけていた。

それでも出来栄えは中々で、味が濃いと言われたあの日以来、木崎からのクレームは受けていない。

千影はほとんど機械的に咀嚼を続けた。

詳しい取調べはこれから行われるらしいが、今日のターゲットも空振りに終わった。

目ぼしい情報も持ってはいないようで、リストにバツ印が一つ増える結果だ。

食事の準備をしている間は調理に没頭することが出来たけれど、こうして仕事の話しもひと段落してしまえば、千影は己の心と真正面から向き合うはめに陥っていた。

ちらりちらりと寄越される木崎の窺う視線に、千影は気付けない。

木崎は諦めたようにひっそりと息をつくと、リモコンに手を伸ばした。

普段ならば食事中にテレビは点けないのだが、液晶画面の中に報道番組が映し出される。

時刻は九時になるところ。

数分間の短いニュースを、少年は卵の黄身をスープに溶かしながら、ぼんやりと目に入れた。

『――王室皇太子、来日を記念して人間国宝である書道家、三葉 明真氏から書の贈呈が……』

特段興味もない世間事情は、皮膚を撫でては消えて行く。

千影の意識は再び埋没し始めた。

思い出すのは、決まったビジョン。

昼間出会った男について。

穂積から受け取った優しさに、浮かんだ笑みは自嘲である。

真実の姿で存外に長い時間を共にしたとき、胸の最奥から込み上げて来た想いは確かに喜びだった。

信じるための一歩を迷う自分の背を、押してくれる力強い激励に、道を進む覚悟は決まりつつある。

後は、自分の罪悪感の問題で、それは穂積に頼るべきことではない。

ならば何が、千影の唇を皮肉びた悲哀の形にさせるのか。

原因は、自分自身の思い上がった認識。

温かい導きの手をくれた穂積を前にして、手を差し伸べられたのは自分だというに、千影の胸は小さな小さな、それでいて嫌な痛みを覚えたのだ。

ピシリッと硝子に傷が入る痛みにも、チクリと針が刺さる痛みにも似たそれ。

さして遠くない過去、弓道場で思いがけず柔らかな微笑をくれた男は、たった二回会っただけの「千影」にも、同じ顔を向けた。

感情の発露に耳を傾け、弱った心を包み込んでくれた。

「千影」に、「優しく」してくれた。

気付かぬ間に勘違いをしていたのだ。




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