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座ったまま振り返りもしないこちらの背に、訝しげな声がかかる。
平静を装いつつ、内心だけで舌打ちをした。
長年一緒にいただけあって、木崎は千影の精神状態をあっさりと見抜く。
現在進行形で荒波の如く揺れている胸中を、部屋に満ちた空気だけで察知したらしい。
千影は立ち上がると、男の脇をすり抜けキッチンに入った。
「別に何にもないよ。アイスティー飲む?」
「……あぁ」
こちらの弁を信じたわけではないのだろう。
低いトーンの返事は、彼の不服を物語っていた。
それでも真実を言うことは出来なかった。
自分の真実の姿を、潜入先の人間に見られたことは重大なミスだ。
共に調査をする木崎には、当然伝えなければならない。
だが、千影の口は重く閉ざされたまま。
頭では自分の選択が間違っていると理解しているのに、行動が伴わない。
言うべきだと理性が叫んでも、体が裏切り誤魔化すようにグラスに冷えた紅茶を注いでいる。
千影に秘匿を選ばせたのは、後ろめたさ。
考えないようにしていた存在が、じわりじわりと姿を見せて形を作った。
不安と焦燥と混乱。
そして、もう一つの感情―――不満。
自分は確かに不満を抱いていた、穂積に対して。
どうして気付かないのかと。
お前がぶつかったのはお前の知る人間であると、どして分からないのかと。
あれほどしっかりと自分の顔を見たくせに。
ひどくゆっくりと映し出された穂積の口が紡いだのは、「お前、どこかで……」。
その先に続く台詞は何であったのだろう。
確信とは程遠い曖昧なニュアンスを帯びた声で、彼は何と続けるつもりだった?
名乗ってしまったショックは当然大きかったけれど、名を問われたことも同じくらいの衝撃を千影に与えた。
漆黒の瞳に拘束されて、見詰め合った長いようで短い時間。
凍りついた自分の中では、驚愕とは別に期待と不安が存在していたのだ。
抱いてはならぬ思いを、千影は胸の根底に抱えていたのである。
生じた感情が信じられない。
認められない。
だってそうだ。
「光」の正体が露見することは、絶対に回避しなければならない事項で。
「光」の正体を知られることを、恐れているのも確かな事実で。
なのに、どうして気付かれないことを不満に感じているのか。
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