◆
見られた。
見られた見られた見られた見られた。
自分の。
「千影」の素顔を。
「光」の真実の顔を!
持ち得る限りの理性を総動員して、冷静になれと言い聞かせる。
ここで動揺してはいけない。
どれほど逃げ出したくても、逃げることは出来ない。
妙な行動一つ取るだけで、穂積に確信を与えてしまうかもしれないのだ。
内側から続く心臓の激しいノック音を、気付かれるわけにはいかなかった。
今現在可能である最上級のさり気なさで、相手の上から退き立ち上がれば、釣られるように穂積も起き上がった。
「すいません、急いでいたもので」
服を払う仕草にかこつけて顔をそらす。
やや低くした声音は、思いの外自然なものだったと思う。
なのに。
突き刺さる視線を感じるのは、何故なんだ。
痛いほどの眼光は、見なくとも知れる。
まさか、バレたのか。
いや、そんなことがあるわけがない。
ボサボサの黒髪と黒縁眼鏡は、自分の人相を別人に変えてくれていたではないか。
大丈夫、落ち着け。
千影と穂積は赤の他人だ。
静かにこの場を後にしろ。
無言の穂積にペコリと頭を下げて、千影は踵を返した。
ところで。
「っ!」
背後から手首を引かれた。
決して強い力ではない。
だが、その緩やかな拘束は「赤の他人」が、ムキになって振り払うことは憚られる強さだった。
掴まれた箇所は夏の気温を軽々と越える。
冷たい恐怖と熱い衝撃。
砕け散りそうな心臓を抱え、ゆっくりと半身を返す。
「あの……何か?」
そうっと持ち上げた茶色の眼を、男の漆黒が捕まえた。
真っ直ぐに射抜く、あの黒い瞳が。
「お前、名前は?」
「ち、かげ……」
名乗ってから気付くも手遅れだった。
口にした言葉は取り消せない。
自分自身の手酷い裏切り行為に、掻き集めた理性が崩壊した。
力任せに穂積から己の手首を取り戻し、なりふり構わず走り出す。
怪しまれるだとか、他人のふりだとか。
そんなことを気にする余裕は、当然の如くない。
混乱極まる少年が足を止めたのは、息も絶え絶えになってから。
汗を含んで張り付くシャツの不快感、顎を伝う雫の熱さ。
「なんで……」
零した台詞は誰の耳に入ることもなく、遠くの喧騒に紛れて消えた。
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