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嘘だ、と誰かに言って欲しい。
夢ならば覚めて欲しい。
蜃気楼なら今すぐ消えてくれ。
絶望とよく似た懇願。
虚しいかな、触れ合った肌の熱はリアルを主張した。
全力疾走とは異なる理由で、鼓動が騒ぎ出し、たちまち息が詰まる。
なんで、どうして。
どうして、なんで。
「彼」がいるなんて。
「彼」がいるなんて。
あるべき場所にあるべきものが、完璧な形で配された綺麗な顔。
艶やかな黒髪から覗く、その色の眼が見張られている。
己と同じように言葉を途切れさせた唇を目にするや、厳重に蓋をしていたはずの記憶が溢れ出した。
学院を逃げ出した日から、何度も何度も忘れようとした記憶。
脳裏でチラつく光景を、無理やり水底へと沈めたはずなのに。
「あの夜」があっけなく外へと流れ出す。
背筋を抜けて行った痺れに、ぞわりと皮膚が粟立った。
ひどく甘い香りに包まれながら、贈られた行為。
口付け。
世界を満たした芳香よりも、ずっと甘くはなかったか。
口付け。
この男は何を思って施したのか。
口付け。
ならば受け取った己は、どんな思いを抱いていたのだろう。
彫像のように固まった互いの内、時間を取り戻したのは穂積 真昼が先だった。
すっと伸ばされた手が額に添えられ、乱れた髪を後ろへと流される。
より鮮明になった相手は、じっとこちらを見つめていた。
ドクンドクンと命の拍動が、やけに耳につく。
されるがまま動けずにいる千影の耳を、凛とした低音が打った。
「お前、どこかで……」
『おい!千影そっちはどうした』
戸惑いを孕んだ問いかけをかき消したのは、少年の右耳。
通話状態にされていたハンズフリーから聞こえた、木崎の声に我に返る。
魔法が解けたようにビクンと体を竦ませ、髪に触れている穂積の手から弾かれたように身を引く。
急襲した現実。
動き出した脳内回路が鳴らす警鐘に、千影は叫ぶのを必死で堪えた。
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