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侮蔑と嫌悪を孕んだ目線を受けたら、自分は堪えることが出来るだろうか。
怖い、怖い、怖い。
嫌われることが、怖い。
仁志 秋吉という男に嫌われることが怖くて、千影は逃げ出したのだ。
「こっちの方が、調査員失格だっての……」
調査続行の危機よりも、対象者から注がれる感情に怯えるだなんて、笑い話にもならない。
自己嫌悪を殺すように奥歯を噛み締め、一度だけ強く目を閉じる。
ふっと短く息を吐き出すと同時に、気持ちを切り替えようとした。
逃げ出してしまった現実は、変えられない。
寮のフロントが夜間でも開いていたお陰で、帰省届けだけは出して来たのだし、表面上は何の問題もないはずだ。
休みが明けて学院に戻れば、仁志からの疑いは益々強まるだろうと簡単に予想がついたが、考えても出来ることは一つだけ。
千影は手にしたリストを真剣に読み始めた。
出来ることが限られているのならば、それに全力で取組むしかないだろう。
幸い、保護者は城下町を拠点に調査を展開している。
この夏季休暇中に、学院外で売人を見つけてみせるのだ。
昨日のようなつまらないミスを踏んでいる暇はない。
売人さえ見つけることが叶えば、自分の中にこびり付いた、仁志への疑念は払拭出来る。
リストの文字を追う千影の瞳が固まったのは、そのとき。
「あ……」
脳裏を掠めた一つの声に、絶句する。
――お前は、真っ直ぐだと思う
凛と澄んだ、心地よい低音。
――育ててやればいい
染み入るように胸の内へ入り込み、痛んだ心を癒した台詞。
自分はそのとき、何と答えた?
――真っ直ぐな気持ちを育てることを、赦してやれ
彼の言葉に、何と返したと言うのだ。
育てると、そう返したのではなかったか。
優しい感情に後押しされて、偽りのない己になろうと決めたはずなのに。
仁志と向き合うこともせず学院から逃げ出し、売人を探すことで仁志を疑う自分に大義名分を与えた。
これのどこが、真っ直ぐ。
汚い。
何て、汚い。
「はっ……やっぱ、無理みたいだよ……会長」
ぐしゃりと醜く線の入った書類に、小さな水滴が斑を作った。
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