『千影』。




後、五メートル。

耳障りな音楽、鼻につく化粧の香り、ともすれば誰かと肌がぶつかる人口密度で、空調が効いているはずなのに、額にうっすらと浮かんだ汗が気持ち悪い。

トランス系の曲は周囲の少年少女たちの脳髄を侵し、現実から乖離させているようにも思える。

浮かぶ様々な感情すべてを黙殺した少年の、優しいブラウンの瞳はただ一点を見つめていた。

密集した人間の狭間に見える標的を、見逃さぬよう限界まで引き上げられた集中力。

音に合わせて適当に身体を動かしながら、自然な調子で距離を詰めて行く。

後、三メートル。

目算で測りながら、タイミングをカウントし始める。

ギリギリまで気取られてはいけない。

張り詰めた緊張感を、悟られてはならない。

大衆の中にあって、唯一異なる空気を纏った異質な己を、内側へ押し込めて押し込めて。

背景へと溶け込ませる。

後、一メートル。

見据えた人影は、カウンターのスツールに座ったまま、定まらぬ焦点で口を小さく開いていた。

漏れる荒い呼気が、こちらまで聞こえて来そうな距離。

ぴったりと張り付いたTシャツから伸びた腕が、微かに痙攣しているのを認め、確信する。

今だ。

「なぁ、ちょっと―――」
「ねぇ一人ぃ?」

対象へと伸ばしかけた手の進路を絶つように、横合いから現れた男は、高い位置にある顔に好色そうな笑みを浮かべた。

突如として出現した障害物に面食らったのは一瞬。

内心だけで盛大に舌打ちをしてから、すぐさま男の脇から背後のカウンターを覗き込むも、そこに求める姿は最早ない。

急いで辺りを見回すも、露出度の高い服を着た少女や流行の格好した少年ばかりが目に入り、一向にターゲットを確認出来ない。

爆発的なBGMの中、扉が閉まる音を聞き取れたのは、これまでの経験が培った捜査員としての特異なシックスセンスのお陰だった。

逃げられた。

悟ると同時に、胸の奥から沸々と込み上がるのは、明確な怒り。

自分へ?

まさか。

「なに、誰か探してんの?手伝ってあげよっか?」

首を廻らせるこちらをどう解釈したのか、対面の男は下心満載の声音で、親切ごかす。

それが余計に怒りに油を注いだ。

「っれのせいだと……」
「え?」
「誰のせいだと思ってんだっ!」

言うや、俯き加減だった顔を持ち上げて、右の拳を振り上げた。

見事な切れ味を持つアッパーは、奇麗に男の顎へを吸い込まれ、邪魔者をフロアーへと転倒させた。

くぐもった悲鳴は喧騒に呑まれて、誰の耳に入ることもない。

救われないのは、自分の快楽追及に耽る人間たちが、人が倒れたことにすら気付かぬ点だ。

ステップを刻む無数の足に長身を蹴突かれ踏まれる男を、冷たい怒気に満たされた眼で一瞥すると、もうここに用はないとばかりに、踵を返した。

薄暗がりの空間を、レーザーライトの蛍光色が縦横無尽に走り回る。

螺旋階段を上って出口へと向かったのは、類まれなる美しい面立ちと、自然な色合いをした穏やかなブラウンの髪を持った少年だった。




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