見えないもの。
ふっと意識を取り戻したとき、『落ちる』前に感じていた体の重さは綺麗に消えていた。
どうやら肉体の回復は終ったらしい。
こう表現するとまるでマシーンのようだが、光としては一番しっくり来る。
ドラッグに対する特異な抵抗体質は、彼のような職種には大きな強みだ。
しかしながら、すべての薬物が利かないわけではないし、一定量を超えれば常人と同じように作用してしまう。
長時間インサニティに晒された今回も体は水面下で大きくダメージを負っていて、回復のために強制的と言っても過言ではない睡眠に落ちた。
体育倉庫を始めこれまで何度か経験しているが、前回のように現場で気を失うのは痛かった。
ベッドを降りてひとしきり体の動きを確認しながら、室内の様子をぐるりと見やる。
予想外だったのは、自分が運ばれた場所がコテージではなかったことだ。
少年の立つ場所は、慣れた自室だったのである。
枕元の携帯電話には23:17の表示。
これは、まさか。
理解した途端、あまりの不甲斐なさにため息が漏れた。
一人ガクリと肩を落として、もう一度スプリングに背中から飛び込む。
控え目なノックが自分以外に気配のない部屋に響いたのは、そのときだった。
返事をしようと口を開くも、僅かに早く扉が開かれた。
どうやらまだこちらが寝ていると思っているらしい。
現れた金髪頭は、むくりと上半身を起こした少年に驚きの顔。
すぐに頬を緩められれば、彼が心配してくれていたことが分かる。
「起きたのか。体調どうだ」
「平気平気、また倒れちゃってごめんな」
「謝んな、お前が悪いわけじゃねぇだろ。あんな目にあえば疲れもする」
仁志の言葉はぶっきらぼうではあったものの優しい。
男はギシリと音を鳴らして、ベッドの足元に腰かけた。
「あのさ、確認のために聞くんだけど……今日って」
「最終日の夜だ」
やはり。
どうやら自分が寝ている間にサマーキャンプは閉会して、学院まで戻って来ていたらしい。
勘付いていたとは言え、そんなにも長い時間布団に潜っていたなんて。
身体機能を正常に戻すときは、回復を優先するためか普段のように小さな物音で起きることもない。
わざわざ運んでくれた人物がいると考えると、心底申し訳なかった。
「……ありがとな」
「え?」
仁志が口にした唐突なお礼。
意味を捉えかねてうなだれていた目を持ち上げれば、心なし柔らかく見える男の表情がある。
こちらを見ることなく床に視線を注いだまま、彼は言った。
「綾瀬先輩のこと」
「あ……!」
目覚めたばかりで回転が鈍くなっていたのか、光は言われてようやくこれまでの出来事を思い出した。
スライドショーのようにパッパッと切り替わる場面が、近い記憶を呼び覚ます。
つい息を飲んでしまったのは、現在の光にもっとも強く痕をつけたビジョンが蘇ったせいだった。
あまりに鮮明でクリアな記憶。
至近距離に耐え得る精緻に整った男の顔、長い睫毛、怜悧な感情を孕んだ熱い眼。
唇の、感触。
貪るように、制圧するように。
羽のキスに続いて仕掛けられた、酷く攻撃的なそれは、光の頭を沸騰させた。
間違いじゃない。
気のせいじゃない。
キスだ。
穂積は自分にキスをした。
何で?どうして?意味は?
理由を探し回る脳内の世話しなさは、ハムスターの運動に似ている。
カラカラ回るランニング機に乗って、存在しない出口に向かい走り続ける様は、存在しない理由を追い求める光だ。
Ans.がないなら考えるだけ無駄であることを、どこかで悟りながら未だ認められない。
有りもしない出口はどこだと、今はまだ叫ぶ段階で。
答えを探す。
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