甘く、苦く。
短期間に二度も拉致被害にあったと言ったら、保護者は何と言うだろう。
心配もするだろうが、彼が懸命に叩き込んだ教育が無意味だったと、一人落ち込むかもしれない。
ふらりと覚醒した光の目に映ったのは、一面の闇だった。
明かりが点いていないのだろうか、と暫時思ったが、目元に感じる布の感触に目隠しをされているのだと悟る。
眼鏡の上から視界を奪われているので、ぎゅっと押し付けられた鼻やフレームが若干痛い。
座らされた椅子の背で、自分の両手首はしっかりと拘束されていた。
映画などでよく見る誘拐された被害者のような格好。
本当に逃走を防ぎたいのならば、足も縛って肩の関節を外すくらいするべきだ。
勿論、そんなことされた日には、いくら光でもこれほど冷静ではいられないが。
周囲に充満する人の気配を感じながら、光は目覚めたことをアピールするように小さく声を出した。
「ん……」
「おい、起きたみたいだぞ」
気付いた男の声に、聞き覚えはない。
自分を拉致した犯人は、綾瀬と同様に逸見の親衛隊なのだろうか。
軽く手を動かして締め具合を確かめていたとき、扉の開く音が鼓膜を着いた。
と、同時に流れ込んだ独特の香りが、鼻腔をくすぐった。
こっくりと甘く、蜜のように滴る蠱惑的なそれは、つい最近嗅いだばかりのもの。
密室の体育倉庫で、傷だらけの生徒たちが体から立ち上らせた匂い。
間違いない。
だが、蘇らせたかつての記憶に、光は奇妙な引っ掛かりを覚えた。
自分ももっと最近に、この匂いを嗅がなかっただろか。
記憶を廻らせながら、足音から入室したのは五人前後と推測した。
元から部屋にあった気配は三人分。
合計八人を相手にするのは、少々骨だ。
「ようやく起きた?長谷川 光」
呼びかけにはっとする。
そうだ、自分はあのときコレと同じ香りを感じ取ったではないか。
前後の出来事からろくに怪しむこともしなかったけれど、フレグランスだと思い込んだけれど。
これは、彼が纏った匂いだ。
インサニティを漂わせていたのは、彼だ。
「起きました。霜月先輩」
「……何、気付いてたの?」
一度だけ言葉を交わした存在は、自己紹介のときとは一変した尖った音色を発した。
途端、視界に眩い光量が溢れ出す。
暗闇からの唐突な脱却に、何度も目を瞬いた。
ようやくきちんと目蓋を開けられるようになった少年が、最初に映し出した相手は、予想通りの人物。
霜月 哉琉が可愛らしさとは程遠い、嘲りの微笑を浮かべて立っていた。
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