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「やめ、やめろっ、離れ……っ!」
思わず呼吸が止まりかけた。
相手の顔を抑える掌に、べろりと奇妙な滑った感触は、気のせいではない。
綾瀬の紅茶色の瞳が、捉えた映像。
「滸、滸、滸」
自分の名前を呼び続けながら、寺内は綾瀬の手を丹念に舐り出したのである。
「いぁっ……ぁぁ!」
「あー、引いてんじゃん。泣かないでねぇー、俺らは気持ちよーくしてあげっから」
「ヤダ、嫌だ離して気持ちわる……っ」
シャツが引き千切られたことよりも、下半身に幾つかの手が伸びたことよりも。
視覚からの威力が何より凄まじかったのは、寺内が自分に向ける欲望の強さが、今この身を蹂躙する誰よりも強かったからだろうか。
寺内は、綾瀬の指を三本まとめて口の中に招き入れたのである。
生温い粘膜に包まれる気色の悪さに、思わず吐き気がこみ上がる。
離せ、離せ、離せ。
言いたいのに、音の出し方を忘れたように、ただ口がぱくぱくと魚のように動いただけだ。
恐慌状態の綾瀬に気付く者はいない。
胸元を辿る指先と、緩めたベルトの隙間から強引にスラックスの内側へ侵入する手。
直接的な行為より、しかし彼に恐怖を与えるのは、男の口に納められた己の親指と人差し指と中指。
喰われる。
この目の前の存在に、自分という存在が取り込まれてしまう。
本当にそう思った。
耳に感じた雫は己の涙だったのか。
綾瀬は迷うことなく寺内の口腔にある指を動かし、彼の舌を思い切り引っ張った。
「っぅぐ!」
堪らず咽て男は唾液でねっとりと濡れた綾瀬の手を放り出した。
すぐに自分に引き寄せ目に映せば、確かに自分の指がある。
消えていない、喰われていない。
ここに、ある。
本能的な恐怖から解放されたのは、瞬きの間だった。
「っ!!」
鼓膜が破れるかと思う威力で、頬を殴られたのである。
誰かに殴られた記憶など、数えるほどしか持ち合わせていない。
カァッと熱を持つ左頬と、殺しきれなかった威力で床にぶつけた頭が、ぐわんぐわんと揺れた。
薬品が抜けきらないうちに、この一撃は辛い。
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