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しかし、彼の予想は裏切られる。
「そこなら逸見の担当だな。俺の見回り範囲ではない」
「逸見……くんの?」
「同じ補佐委員なんだ、俺よりずっと気心が知れているだろう。あいつなら話し相手に喜んでなってくれるはずだ」
にっこり。
見事な笑みが、魔王の美貌に刻まれた。
知らぬ者が見れば、真からの思いで言っていると勘違いするところ。
固まった霜月を見る限り、彼と逸見の相性は最悪だと察せられる。
知っていて見回り範囲を振り分けたに違いないと、この場で気づかぬ者はいなかった。
「会長、性格わる……」
誰にも聞かれぬ小声で一人ごちたのと、穂積がくるりとこちらを振り返ったのは、ほぼ同時だった。
「長谷川」
「は、はいっ!」
敬礼でもしそうな勢いに、相手が真実の笑みを零すのが分かった。
「見回りが終わり次第、役員を連れてくる。準備しておけよ」
「少しは手伝うとかって選択肢ないんですか」
「生憎、一般生徒と違って多忙だからな。夕食、期待してる」
言うだけ言うと、踵を返してテラスの階段を下りて行ってしまう。
焦ったのは霜月で、小走りで広い背中の後を追った。
「え……」
零れ落ちた一音。
去り際に寄越された、射るような眼光に驚いたのではなかった。
そんなものは少年の「嘘」を看破した時点で想定済みだ。
呆然と目を見開いた理由は。
霜月が身を翻した瞬間、ふわりと鼻先を掠めた微かな香り。
鍋から漂うカレーの食欲をそそるものとは、明らかに異なったそれは、どこかで嗅いだことがあるもので。
この匂いは。
確か、この匂いは。
「あ……火っ!」
思い出した重大事項に声を上げ、慌ててコンロに駆け寄った。
鍋の底からかき混ぜれば、どうやら焦げてはいないようで、胸を撫で下ろす。
食事を振舞う相手は仁志だけではなくなったのだから、失敗するわけにはいかない。
料理の続きをし始めた光は、寸前まで掴みかけていた「予感」を失くしていた。
作りかけのサラダに手をつけながら、あのこっくりと甘い臭気を、霜月のフレグランスか何かだと処理した彼は、あまりに愚かだった。
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