◇
「食事に五月蝿いヤツに、いつも作ってたからな」
言った途端、穂積の表情が一変したことにも気付かずに。
明らかに変化した男の纏う空気を、平時を保てた安心からひどく愚鈍になっていた光は、察することが出来ない。
ようやく異変を悟ったのは、急に不機嫌になった男に声をかけられてからであった。
「……誰だ」
「は?何が?」
意味を捉えられず、穂積へ目を向けた光はぎょっとした。
なんだ。
なんだなんだなんだ。
さっきまでの穏やかムードは何処に消えた。
どうして穂積は、眉間にシワを作っている。
さっぱり分からないぞ、この謎は。
困惑するこちらを認識しているのかいないのか。
彼はもう一度、言を紡ぐ。
「それは誰だと、聞いている」
「いや、誰って……。会長いきなりどうしたんですか?」
出来るだけ静かに訊ねるのは、自己保身のためである。
魔王降臨は反則だ。
そろそろ夕暮れに近付きだし、西日が照りつけると言うに、体感温度がぐっと下がった。
これも省エネと言っていいのだろうか、と頭の片隅で考えられる自分は、いい加減穂積の魔王っぷりに慣れて来たのだろか。
……。
嫌だ、慣れたくない。
こんな薄ら寒くて凶悪なものに。
なまじ顔が整っているせいで、不機嫌オーラを醸し出す男は本当の魔王に見えてくる。
「長谷川」
「なに怒ってんですか……誰だっていいでしょう。大体、俺なにか……」
失敗した!
どの言葉が彼の琴線を刺激したのか定かではないが、いつの間にやら不穏なオーラが威力を増している事実に、言葉を途切れさせた。
ゆっくりとした所作で椅子を立ち上がった男に、意識せぬところで足が一歩、後退した。
不味い。
何が不味いって、よく分からないが、非常に不味いことだけは理解出来る。
穂積が一歩距離を詰めるごとに、その分だけ光は背後に下がる。
一歩、また一歩。
しかし結果は目に見えている。
光の腰が、テラスの柵にぶつかった。
これ以上の逃げ場は、ない。
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