『長谷川 光』。




麓の街を通過してから、一体どれくらいの時間が経っただろうか。

それなりに開発された近代的な景色から、目に映るものが緑一色になったのは、もう随分と前のように思える。

木崎の運転する車の助手席で、少年は曲がりくねった道に酔うこともなく、ただ窓硝子の外側を眺め続けていた。

「千影」
「………」
「おい、千影っ」
「………」
「ちーかーげーさーん」

呼び声に反応しない相手に、木崎は「またか」と内心で息をつく。

急な任務を告げた翌日、すでに千影は普段通りで、仕事の話にきちんと耳を傾けていたから、機嫌が悪いわけではない。

悪戯に無視をするほど幼稚でもなく、ではなぜ少年は返事をしないのか。

答えは簡単だった。

「光」
「ん……なに?」

まるで今初めて名前が呼ばれたかのような顔で、千影は顔をこちらに向けた。

その姿は『キザキ』の時のような派手なものではなく、ましてや本来の『千影』でもない。

目元まで伸びた真っ黒な髪と、古めかしい黒縁眼鏡。

根暗を代表する二つのアイテムは、暴力的なまでに千影の端整な美貌を覆い隠した。

碌鳴学院の清潔感溢れる白のブレザーと相まって、まるでオセロ。

身体は確かに千影のものでも、ここまで変装させると別人だ。

そう。

木崎の隣にいるのは千影であって千影でない。

「あ〜優秀過ぎてイヤになるよ。『長谷川 光』くん」

木崎は顔を顰めると、少年の名前を口にした。

保護者の苦い口調に、光は黒いカラーコンタクトを付けた瞳で、クスリと微笑んでみせる。

幼い頃からの教育のためか、千影は一度任務に入れば完璧に己を殺す癖があった。

与えられた役の情報を頭に叩き込むと、その間は完全に別人を装い、本来の名前に反応することは決してない。

今の千影は、長谷川 光と言う存在なのだ。

「お褒めにお預かり光栄です」
「……その調子で頼む」
「大丈夫。なるべく早く終わらせてみせるから」

面白がるような光にやや憮然とした表情の木崎だったが、相手の言葉に表情を改めた。

丁寧な動きでハンドルを切りつつ、忠告する。

「くれぐれも焦るなよ。まずは学院に慣れることが先決なんだからな」
「分かってる。けど、あんまり長くいたら、それだけ次の仕事へのリスクが上がるだろ?」
「その通りだ。だがな、売人の目星もついていない状況で、下手に騒ぎ立てて嗅ぎまわってみろ。どうなるか、お前なら分かるはずだ」

光は自身の胸の内を看破されているような気まずさに、身じろぎしつつ、最終確認を終えて茶封筒に戻した資料を思い返した。




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