声を出してはならない。

何も言ってはならない。

だってそうだろう。

あの傷は。

綾瀬のあの傷は。

「ちがっ、仁志くんこれは……」


ダレガツケタモノ?


それは衝動。

あまりに明確で、あまりに輪郭を持った爆発的な感情が、足を動かした。

ほとんど強制的にと言っても過言ではない。

綾瀬の前に立っていられない臆病な自分。

綾瀬と目を合わせることの出来ない脆弱な自分。

綾瀬を傷つけてしまった愚かな、あまりに愚かな自分が。

逃げる。

透き通った紅茶色の瞳から、逃げる。

とてつもなく恐ろしいものに遭遇した旅人のように、必死で地を蹴りつけた。

綾瀬に名前が呼ばれることが、これほど辛いだなんて。

見えてしまった。

幾筋もの格子を廻らせた背中を持つあの人が、優美な面をくしゃりと歪めたのを。

その顔いっぱいに、こちらを気遣う色が乗せられていたことを、仁志は知ってしまった。

痛ましい痣をつけた張本人を、被害者が思いやるだなんて真似。

させてしまった自分が情けない。
逃げてしまった自分は、さらに情けない。

自覚しているのに、誰もいない碌鳴館の廊下を走る体は止まらなかった。

大気を裂いて勢いのままエントランスを飛び出せば、カッと照りつける日光が、金髪を捕まえた。

光と別れたのは、ほんの少し前。

理性を飛ばして暴走をしたこちらを、友人は柔らかに赦してくれた。

受け入れてくれた。

激情のままに拳を振るった事実は消えないのだから、懺悔を受け入れてもらおうなどとは露ほども願っていない。

それでも、華奢な肩に額をぶつけたとき、仁志の心は確かに救われていた。

強固な罪悪感が、ふっと少しばかり軽くなったように思えたことが、とても嬉しかった。

でも、それは光の場合。

転校生に負けず劣らず優しい先輩も、きっと自分の暴力を赦してしまうだろう。

白一面を汚した罪深い身を、広く清い心で受け入れてしまうに違いない。

驕っているわけでもなければ、希望を述べているわけでもなく、現実問題、綾瀬はそういう人間だ。

「駄目だ……」

洋館から寮へと伸びる一本道を半ばまで走りきったとき、ようやく男は足を止めた。

革靴に張り付いた自身の影に向かって、ぽたりと水滴が落ちた。

乱れる呼吸の合間に、落とす声。

「赦しちゃ駄目なんだよ……先輩」

だって自分は誓ったのだ。

彼を吹き飛ばした同じ日に。

僅かの時間も経たぬ頃に。

「何がっ、守るだよ……」

守護の腕でありたいと願ったはずが、どうして彼を傷つける。

あの格子を付けたのは、紛れもなく自分なのだ。




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