◆
声を出してはならない。
何も言ってはならない。
だってそうだろう。
あの傷は。
綾瀬のあの傷は。
「ちがっ、仁志くんこれは……」
ダレガツケタモノ?
それは衝動。
あまりに明確で、あまりに輪郭を持った爆発的な感情が、足を動かした。
ほとんど強制的にと言っても過言ではない。
綾瀬の前に立っていられない臆病な自分。
綾瀬と目を合わせることの出来ない脆弱な自分。
綾瀬を傷つけてしまった愚かな、あまりに愚かな自分が。
逃げる。
透き通った紅茶色の瞳から、逃げる。
とてつもなく恐ろしいものに遭遇した旅人のように、必死で地を蹴りつけた。
綾瀬に名前が呼ばれることが、これほど辛いだなんて。
見えてしまった。
幾筋もの格子を廻らせた背中を持つあの人が、優美な面をくしゃりと歪めたのを。
その顔いっぱいに、こちらを気遣う色が乗せられていたことを、仁志は知ってしまった。
痛ましい痣をつけた張本人を、被害者が思いやるだなんて真似。
させてしまった自分が情けない。
逃げてしまった自分は、さらに情けない。
自覚しているのに、誰もいない碌鳴館の廊下を走る体は止まらなかった。
大気を裂いて勢いのままエントランスを飛び出せば、カッと照りつける日光が、金髪を捕まえた。
光と別れたのは、ほんの少し前。
理性を飛ばして暴走をしたこちらを、友人は柔らかに赦してくれた。
受け入れてくれた。
激情のままに拳を振るった事実は消えないのだから、懺悔を受け入れてもらおうなどとは露ほども願っていない。
それでも、華奢な肩に額をぶつけたとき、仁志の心は確かに救われていた。
強固な罪悪感が、ふっと少しばかり軽くなったように思えたことが、とても嬉しかった。
でも、それは光の場合。
転校生に負けず劣らず優しい先輩も、きっと自分の暴力を赦してしまうだろう。
白一面を汚した罪深い身を、広く清い心で受け入れてしまうに違いない。
驕っているわけでもなければ、希望を述べているわけでもなく、現実問題、綾瀬はそういう人間だ。
「駄目だ……」
洋館から寮へと伸びる一本道を半ばまで走りきったとき、ようやく男は足を止めた。
革靴に張り付いた自身の影に向かって、ぽたりと水滴が落ちた。
乱れる呼吸の合間に、落とす声。
「赦しちゃ駄目なんだよ……先輩」
だって自分は誓ったのだ。
彼を吹き飛ばした同じ日に。
僅かの時間も経たぬ頃に。
「何がっ、守るだよ……」
守護の腕でありたいと願ったはずが、どうして彼を傷つける。
あの格子を付けたのは、紛れもなく自分なのだ。
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