◇
眉間に深い皺を刻んで、むっと押し黙る男は、光たちのやり取りを耳に入れる気はないのか、何やら書類を睨みつけていた。
その様を暫時観察すると、ほっと胸を撫で下ろす。
よかった。
穂積の表情の、何処にも不審な点はない。
起き抜けの様子を見る限り、風呂場での一件を覚えているようには見えなかったが、どうやら本当に記憶にはないようだ。
期待に満ちた綾瀬に視線を戻すと、光はにっこりと笑顔を浮かべた。
「はい、もうばっちり寝惚けてました」
「っ……!」
「やっぱりっ!」
絶句と歓声。
ガタッと派手な音が聞こえたのは、仕事を始めたフリをしていた男が、重厚なデスクから勢いよく立ち上がったせいである。
寝顔に続き、穂積をからかえる機会など滅多にないからと、綾瀬に釣られてみたのだが。
……横顔が痛い。
まず間違いなく、「何か」が刺さっている。
その先に待っているものを予想出来てはいるものの、確認せずにはいられなくて。
少年は油の切れたブリキ細工よろしく、この上なくぎこちない動きで首を廻らせ―――後悔した。
「長谷川……覚悟は出来ているな?」
漆黒に怒りの焔を備えた双眸が、強烈な視線でこちらを射殺そうとしているではないか。
不味い。
非常に不味い。
「あ、あの……いや、その俺……」
しどろもどろとは、まさにこの事。
光は一歩、一歩と後退ると、いつもの如く。
「歌音先輩と逸見先輩にも、よろしく言っておいて下さいっ!助けてくれて、ありがとうございましたっっ!」
逃走開始。
飛び出した廊下まで、副会長様の笑い声が聞こえていた。
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