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部屋に灯したままの間接照明を切ると、光は寝室を出ようとして。
思い至った。
唐突に体を駆け抜けていった一つの可能性。
いいや。
恐らくは真実に、夏場に適した薄手のタオルケットに包まる人物を振り返る。
ドアノブを掴んだままの左手と、右手の先は一応までにかけた眼鏡。
素顔を隠す、重要なアイテムが。
どうして取られていなかった理由。
単に気が回らなかっただとか、面倒臭がったからだとか。
自分をここまで連れてきたのが穂積ならば、どちらも当てはまるはずがない。
「俺が、嫌だって言ったから……?」
音にして、後悔した。
急いで部屋から逃げ出すと、闇色のリビングでぼんやり浮かんだ真っ白なソファに蹲った。
あぁ、なんてことだ。
確かに自分は、あの男の優しさを知ってはいたけれど、ここまでなんて誰が思う?
一ヶ月前に交わした会話の仔細なんて、己とて今の今まで忘れていたのに。
穂積はしっかりと記憶していて、そうしてあれほどこちらの素顔を気にしていたくせに、意識のない光の意思を尊重して眼鏡をそのままにしておいてくれたのだ。
一体この世のどこに、ここまでの男がいるという。
唯一の欠点とも言える傲慢な態度さえも消えてしまえば、後に残ったのは容姿から内面まで隙のないほどに魅力的な人間。
食堂での出来事が、ぐっと遠のく感覚に心が付いて行かないから、戸惑いはあまりに大きい。
「俺を……潰すんじゃなかったのかよ」
弓道場で出会ったあの時から、穂積の優しさは未だ消えない。
それがとても、恐ろしくて。
光はぎゅっと目を瞑り、夢の世界へと更なる逃亡を試みたのである。
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