◆
『起きたのか?』
その声が鼓膜を打ったのは、色素の薄い髪が纏ったシャンプーの泡を、すすいでいる時だった。
シャワーの音にかき消されることなく、曇り硝子一枚隔てた向こう側から、かけられた言葉。
あぁ、会長か。
なんて、やけに冷静に相手を認識する脳とは反対に、心臓は凄まじいスピードで内側からノックを始めた。
髪に埋めていた指先が、硬直すると同時に血の気が引いていく。
彫像さながらフリーズ状態に陥った光は、肉体から遅れること数瞬の心の激しい動揺に、呼吸困難になりそうだった。
なんで、どうして。
どうして穂積がここにいる。
決まっているではないか。
ここに自分を運んで来てくれたのは、穂積で。
玄関の開閉音はしなかったから、大方あのリビングの闇にいたのだろう。
疑問は自身の優秀な頭脳が弾き出した可能性によって、即座に解決されたけれど。
真実、そんなことはどうでもよかった。
今重要なことは、なぜ穂積がここにいるかではない。
変装を完全に解いた自分がいて、そのすぐ近くに、穂積がいる。
気にすべきは、これだ。
『おい、どうした』
「や、あの、はいっ!起きました起きましたっ!」
返事がないことを怪訝に思ったのだろう。
やや低い声に問われ、慌てて返事をする。
「会長がここまで運んでくれたんですよね?有難うございます。俺、もう大丈夫なんで帰ってもらって平気ですよ!」
むしろ帰って下さい。
恩を仇で返すとはこのことか。
相手の厚意を無碍にするような胸中は、しかしあまりに切実だ。
穂積に自分の真実の姿を見られるわけにはいかない。
いや、穂積であろうとなかろうと、学院の人間に。
調査先の人間に、自分の素顔を見られることは、何としても回避しなければならない。
これは光の絶対事項である。
ドクドクと加速を続ける鼓動があまりに五月蝿くて、光は雑音を減らすために咄嗟にシャワーを止めた。
なのに。
『なんで風呂なんか入ってる、すぐに出ろ。お前、熱があったんだぞ』
「いや、汗かいたんで……」
『体調が悪化したらどうするんだ。ほら、早くしろ』
この傲慢魔王っっ!!
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