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今しがたまでの怯えが嘘のように、辺り一帯に膨らんで行く負の気運。
ぶわりと立ち込める狂気に似た破壊衝動に、綾瀬は頬を強張らせた。
傍らの友人に、小さく伝える。
「歌音ちゃん、悪いけど一人で逃げてもらえる?」
「えっ?」
「僕、自分より弱い子と戦いたくないんだよね。一人なら避けられるんだけど、流石に誰か庇いながら避けるのは……ね」
「そんな、でもっ!」
「お願い。このこと、誰にも言わないから」
大丈夫だと、言い聞かせるために微笑む。
僅かに逡巡してみせた歌音は、しかし戦闘能力のない自分が足手纏いであると知っている。
ぐっと口を引き結ぶや、脱兎の如く走り出した。
「あっ!!アダムスがっ!」
「くそっ、そっち追ってっ!」
当初の標的である歌音を逃がすつもりはないらしく、少年たちは慌てて後を追おうとする。
綾瀬は行く手を遮るように躍り出ると、わざと明るい調子で挑発した。
「あれ?僕のこと放っておいていいのかな?言い方悪いけど、アダムスと綾瀬……どっちに睨まれる方が深刻かなんて、簡単だよね」
にっこりと笑顔もつければ、見る間に相手の眦が釣り上がった。
これで一先ず、注意は自分に引き付けられた。
歌音のことだから、誰か人を呼びに行ってくれるはずだし、彼が逃げ切るまで時間を稼がなければ。
冷静に思考を展開させていた男の予想は、彼の死角から脇を通り抜けて入った一人の少年によって壊された。
「しまっ……っ!」
焦燥の呟きを掻き消すように、残りの少年たちが棒切れを振り下ろした。
どうにか身を屈めてかわすも、すぐさま追い討ちをかけられれば堪らない。
思ったよりも、ずっと理性が飛んでいる相手に、胸中だけで寒気を覚えた。
凶器を使った一撃は重く、まともに食らえば病院送りだと気付いていないのだ。
反撃さえ出来ればワケはなくとも、綾瀬はただ避けるのみである。
それがまた、少年たちを調子付ける。
ぶんぶんと滅茶苦茶に振り回される木の枝は、時折長い栗色の髪を掠めていた。
追走がついた歌音の身が心配だと言うに、どうすればいい。
意識を少し、そらしたのが悪かった。
「あ、まずっ……」
横殴りで迫った凶器への反応が、遅過ぎた。
胴体への直撃は内臓へのリスクが高い。
ぎりぎり腕を盾にして……。
「はっ?」
綾瀬の視界から、生徒が消えた。
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