魔法の効果。
昂ぶった感情が落ち着いたのは、授業の終わりが迫った頃。
ほぅっと肺に溜まったものを逃がしてやった光は、外していた眼鏡を装着した。
気を使ってくれたとは思いたくないが、穂積は先ほどから着替えのために姿を消していた。
道場に併設されているロッカールームに居るのだろう。
お陰で、度も入っていない伊達眼鏡を心置きなく取り払い、乾き始めた目元をしっかりと拭うことが出来た。
今日の天気とはまるで異なっていた心中は、不思議な疲労と充足感に満たされ凪いでいる。
穂積の優しさと、久方ぶりに流した涙がよかった。
潜入捜査で知らず感じていたストレスも洗い流されて、弓を引いたときよりもずっとすっきりとした気持ちだ。
乱れていた前髪を整えていると、道場の扉が静かに開き、生徒会長の帰還を告げた。
弓道衣から制服に戻った彼を見て、少し惜しい気がしたのは何故なのか。
理由は分かっている。
平時とは別人のように思えた穂積が、いつもの制服姿になれば、また傲慢さをぶり返すと思ったからだ。
それほどに、今しがたまでの男は、考えられぬくらい光に優しかったのである。
「まだいたのか」
ほら。
何を言うかと思えば、こちらを邪険にする一言。
不遜にも取れる穂積の態度に、光は自分の想像は正しかったと察した。
あの穏やかな微笑みは幻だったのか。
弓道衣の魔法、なんてキャッチコピーが浮かんだ。
彼は何事もなかったような足取りでこちらに向かって来る。
そうっと視線を持ち上げれば、極近い場所で立ち止まり、伺うようにこちらを見やる男に気付いた。
「あの、なんですか?」
若干の気不味さは仕方ない。
何せ、自分はこの男の前でボロボロと泣いてしまったのだ。
居心地の悪さに視線を逸らす。
穂積は顔を間近に近づけて、涼やかな黒曜石に少年を映し出した。
「もう、大丈夫だな」
「……っ!」
光は避けていた穂積の眼を確認しようと、勢いよく目を向けた。
が、半瞬遅く。
相手はふいと顔を離すと、さっさと道場の縁に行ってしまう。
どうやら自分同様、正規の出入り口から入ったのではないようで、革靴に足を通しているのが見えた。
ドッ、ドッ、と走る心音。
聞き間違いじゃあ、ない。
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