千影の身内いっぱいを埋め尽くす懇願を、まったく汲み取らない男は、掠れた声で言を紡ぎ続けるから、腹が立った。

「お前は、自由にしたはずだ」
「うるさいっ」
「今更、戻る理由など……ないだろう」
「黙れって!」
「好きだ」
「だからっ……え?」

がなるや、与えられた一言。

鼓膜を揺らし脳に至るも、何を言われたのか理解するまでに数秒の時間を要する。

救援を見上げていた少年が、ゆっくりと己の腕の中へ視線を落とせば、真っ直ぐにこちらを見つめる艶やかな光りがあった。

「千影、好きだ」

偽りや冗談とは無縁の清廉な眼差しが、贈られた言葉を脳に染み渡らせる。

捧げられた純然たる想いが、心の奥深くにまで滑り込み溶けて行く。

千影の中に存在する感情と結びつき、溢れ出したのは。

歓喜でも幸福でもなく、身を切るような切ない心。

「もう二度と、会えないと思った。最後にお前を守れたのなら……それでいい」
「……っいいわけないだろ!勝手に満足するなよっ」

勝手なことを言う男を、殴り飛ばしたい。

自分の言いたいことだけを口にして、何を一人で完結しているのだろう。

ふざけるな。

そう、思うのに。

「好きだ、お前を、愛している」
「だから!黙れってばっ。今そんなこと言われたって……」
「好きだ、千影。お前が好きだ、好き、だ……」
「聞きたくない、今聞きたくないっ、後で聞くから!!」
「愛している」

繰り返される愛の言霊に、視界が歪む。

滲む真昼の姿はどんどんと輪郭が不明瞭になって、やがてスッと元の通りに映る。

頬を伝って行く雫を、大きな掌が拭い取る。

触れ合った肌が熱を持ち、満ちる恋情に涙腺が破砕した。

「俺は、お前が……」
「俺だって!俺だって……好きだよ。だから、死なないでっ……!」

真実の想いが涙と共に真昼の上へと零れたのと、西の塔で最後の薔薇の花弁が散ったのはほとんど同じ瞬間だった。

響いたのは、キンッと高い音。

決して耳触りではないけれど、聞いたことのない不思議な音色は、やがて連続して音を奏で始める。

何事かと顔を持ち上げた少年が目にしたのは、雨のように降り注ぐ煌めく粒子だった。

夜空に白く細い軌跡を描きながら、幻想的な虹色の輝きが弾ける。

「なん、なんだ……一体」

真昼や己だけでなく、城全体を覆うかの如く落ちて来る光りはまるで流星のようで、理解を越えた事態に目を丸くした。

それでも正体不明の眩い雨から庇おうと、真昼を強く抱きしめた少年は、腕に感じた奇妙な浮遊感にぎょっと空を仰いでいた顔を下ろした。

意識を失った真昼の体が、ふわりと浮き上がっているではないか。

金縛りにでもあったように、自分の意志では動かせない己の腕をすり抜けて、男の体は中空で止まる。

遮るものなく星の粒子に晒された身が、淡く清廉な輝きに包まれ、息を呑んだ。

何だ、これは。

どうしたと言うのだ。

先ほどから休む間もなく襲う衝撃に、千影の心臓は壊れてしまいそう。

「真昼……え?」

呆然と上方の男を見上げるばかりの少年は、真昼の目元を覆う銀色の仮面に、ピシッとひびが入ったことに気がついた。

ひび割れはたちまち枝を伸ばし、仮面全体に行き渡ると、パリンッと繊細な音を立てて弾け飛んだ。

光りに漂う黒髪で、露わになった目元が再び千影の目から隠されるが、続けざまに起こったことの方が、よほど重要だった。

彼の肌を錯綜していた痛ましい鎖型の痣が、しゅるりと剥がれ空に消えて行く。

袖口やマントの内側からも出て行く暗い影。

彼の指先に備わっていた鋭い爪も、みるみる短くなって人のそれへと形を変える。

頭に付いていた二本の角が、霧散するように消失する。

次第に収束する光りを纏いながら、男の身はそっと屋根の上へと舞い戻った。

横たわる真昼に今すぐ駆け寄りたいのに、千影の手も足も、知らず強張って少しも動かない。

たった今、目にした光景に支配された千影は、優美な白亜のそれに変貌した城の外観も、仮面や耳などが消えた背後の綾瀬たちの姿も視界に入らない。

やがて長い眠りから目覚めるように、男はゆっくりと上半身を起こした。

目元を押さえた相手は、すぐに違和感に気付いたのか手を外し、人でしかない指先をまじまじと見ている。

それからシャツの胸元を広げ、消え去った痣を確認した様子だ。

一連の動作を放心状態で見つめる少年は、最後にこちらを見た彼の姿に狼狽えた。

「千影」
「っ……!?」

凛と響く低音で、己の名を呼ぶのは誰だろう。

分かっているはずなのに。

何度となく呼ばれたはずなのに。

現実を把握しきれず、返事が喉の奥で引っ掛かる。

仮面も、痣も、角も、爪も、牙も。

男を魔王たらしめていた要素が失われた今、こちらを見つめる存在はあまりに整った容貌をしていたのだ。

瞬きもせず凝視すれば、相手が怪訝そうに首を傾げる。

「千影……?」
「そ……」
「なんだ」
「そんな美形だなんて聞いてないっ!!」
「は?」

心の声が爆発した。




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