僅かに開いた黒の扉を目にしたとき、千影は全身の血液が引いて行くのが分かった。

恐慌状態にも似た焦りのまま、扉を押し開き西の塔へと踏み込む。

過去に一度見たときと、何ら変わり映えのない薄暗い室内には、誰の姿も発見できない。

真昼の私室であるこの場所すら無人だと言うのなら、千影にはもう心当たりなどなくて、心臓を焦がす焦燥に呑まれかけた。

忙しなく動かしていた少年の瞳が、開け放たれた大窓に気付くのはそのすぐ後。

バルコニーへと続く硝子窓は、天空から降り注ぐ月光によって、青白い輝きを放ち誘うようだ。

視界の端にあのガラスケースに覆われた薔薇が映り込んだ気もしたが、今は気に止めている余裕などない。

導かれるように駆け寄ると、ぐいっと首を伸ばして外を窺った。

「っ、真昼!仁志!!」

階下の屋根の狭間に立つ二人の人物は、どちらもよく知っている男だ。

千影の声が届いたのか、こちらを背にした真昼の肩がビクリと跳ね、弾かれるように振り向きかけた。

しかし、その隙を突くように放たれた数本のナイフによって、千影を仰ぐことが叶わない。

容赦のない仁志の攻撃に、千影は異変を悟った。

討伐隊の役割は、夜盗の頭目と言われる「魔王」の捕縛だ。

多少の傷は負わせても、致命傷を与えては意味がない。

それにも関わらず、再びナイフを飛ばした友人には、離れた場所に立つ千影にすら分かるほど、殺気が漲っている。

捕まえる気など微塵も感じさせない、殺戮のための刃を繰り出しているではないか。

「キレてる……?」

千影の呼び掛けにも反応しなかったくらいだ。

理由は定かではないが、理性が弾けて完全に怒りのままに戦っているに違いない。

気付くや、千影はバルコニーを跨いで、緊迫した空気に包まれた戦場へと駆けだした。

街の自警団のトップを務める仁志は、相当の戦闘力を持っている。

その技量はとても一般人とは思えないレベルで、まともに相手をして勝てる存在など、千影は知らない。

平時ならば兎も角、完全に激情に呑まれた彼を止めることは不可能だ。

早く真昼を助けなくては。

足場の悪い屋根の急斜面をどうにか下り、二人の元へと急ぐ。

「真昼っ、真昼、逃げろ!」
「千影くん!」

少年の警告と被った声は、先ほどまで立っていたバルコニーから。

綾瀬のものだと脳の一部が判断を下すものの、返事など出来るものか。

今の千影の口から発せられる音は、唯一つ。

「真昼!!」

やっとの思いで二人の対峙する場所へと降り立ち、黒いマントを翻す男の背中を真正面に捉えた。

逃げてくれと祈る気持ちで、振り絞るように名を叫んだのと、すべては同時。

仁志の手から放たれた空を裂く無数の凶器を、千影は直線上にある真昼の身体によって視認できないでいた。

一瞬の油断も許されない状況下で、魔王が迷うことなくこちらを振り返ったことに、ただ驚くばかり。

え?

疑問符を浮かべた千影の瞳と、真昼のそれがぶつかる。

黒曜石に宿る感情は、何であったのか。

見極める前に、彼は不自然にたたらを踏んでよろめいた。

失われたバランスを保とうと、踏ん張る足の膝が震えている。

遂に崩れ落ちた真昼の背に生えた、幾本ものナイフの柄に、千影は一瞬ですべてを理解させられた。

肺に取り入れたはずの酸素が、消失する。

「あ……あ、まひ、真昼っ!」

ブラウンの虹彩が、眼窩から零れ落ちそうなほど目を見開いて、残り僅かな距離を埋める。

うつ伏せに倒れ込む相手を抱き起こし、その荒い呼吸に唇が戦慄いた。

「……る、真昼、真昼っ!?」

背中の傷に触らぬよう、肩を抱え込む少年の傍らを、風のように逸見が走り抜けるも気付かない。

じんわりと彼の衣服を重くする、生命の温もりに恐慌に陥りかける。

己のせいだ。

真昼が避ければ、無数の切先は千影を差し貫いていたのだ。

助けるつもりが、正反対の結果を生み出すなんて。

いくら必死だったと言っても、戦況も見極めず一目散に彼の元へ走るなど、最低だ。

まったくの素人でもないのだから、もっと冷静になっていれば、こんな事態を招かずに済んだのに。

次から次へと襲い来る自責の念。

顔に刻まれた青い痣が際立って見えるのは、真昼の肌が白皙を思わせるほどに血の気を失くしているからだ。

仮面の奥でうっすらと開いた目蓋に、胸が締め付けられる。

「なぜ……戻って来た」
「しゃべらないで下さい」
「答えろ」
「こんなときに命令しないで下さいっ」

今はそれどころではない。

悠長に話などをしている暇はない。

すぐにでも手当てをしなければならないと、千影はこちらに下りて来る綾瀬たちを、縋る思いで仰ぎ見る。

助けてくれ。

誰か彼を助けてくれ。




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