SIDE:野獣

思い返せば、夢のような時間だったと、男はうっすらと笑みを浮かべた。

私室に籠った城主を気遣って、誰も訪ねてはこない部屋は静かだ。

窓辺の一人掛けに身を沈める様は、気だるげで覇気がなく、今にも闇に溶けそうなほど儚い。

青白い月光に晒され生まれた陰影は、真昼の胸中を示すかの如く深いものだった。

ふっと唇から零れた吐息は、歩き疲れた旅人を彷彿とさせる。

迷い込んで来た少年に魅せられて、本能のままに幽閉を言い渡してからの刻は、決して短いとは言えないけれど、己にとっては瞬きの間だ。

千影との記憶を順繰りに思い描けば恋しさが募って、自覚していた以上に脆い自身に微笑みが苦くなる。

拒絶されるのは致し方のないことだと思っていた。

千影の心を握りつぶす真似をしたのだから、避けられたとて自業自得だと。

いつにない強引な手段に、後悔が津波のように迫り来たのは言うまでもなく、知らず仕事に逃げていた。

そんな傲慢で卑怯な己と、あの少年が向き合ってくれたのは、信じ難い奇跡。

数時間前には腕の中にあった温もりを追いかけるように、そっと両の掌を見つめれば、天空から注ぐ月明かりを受けて煌めくものがある。

綾瀬から渡された、千影の忘れ物。

銀色の鍵。

細いチェーンに通されて、さながらペンダントのようだ。

これがなければ困るのではないか。

届ける必要があるのではないか。

往生際の悪い醜悪な考えがチラつく頭、ゆるく振る。

千影に再び会ったところで、どうすると言うのだ。

太陽の下を進んで行ける存在に、闇に堕ちた自分が手を伸ばすなどあってはならない。

熱を分かち合い、言葉を交わしたこの城での時間は、夢物語。

本来の場所に戻った彼の邪魔を、どうして出来る。

一度は暴挙に及んだ身だからこそ、もう二度と、千影を傷つけたくなかった。

男は穏やかなブラウンの色彩を探すように、鍵を見つめる。

特別変わったところもない、有り触れた形。

忘れてしまって、千影は困らないのだろうか。

最初に抱くべき疑問にようやく思い至るも、判断は出来ない。

彼の住まう場所の鍵かもしれないし、失くしたとて支障のない鍵かもしれない。

真昼には鍵の差しこむ場所を知る術はないのだ。

分かっていることは、今となってはこの銀色の欠片だけが、二人を繋ぐ唯一のものだと言うことだけである。

掲げた銀色を白光に翳した真昼は、引き寄せられるかのように、そっと鍵へと口づけた。

行き場のない恋情が、堰き止められた熱情が、身内を焦がす。

静けさの続いていた西の塔に、強めのノック音が反響したのは、名残惜しげに唇を離したときだった。

どこか焦りを感じさせる訪問の合図に、一時感傷から抜け出す。

真昼はペンダントとなった鍵を素早く首にかけると、椅子から立ち上がり扉を開けた。

神妙な面持ちで立っていたのは、先ほど出て行った綾瀬である。

瑠璃色の仮面に隠されていない右半分の顔に、虚無感に苛まれる感情を抑え、理性で異常事態の発生を察した。

「ごめん、何度も」
「何があった」

火急を要する案件が迫っている状況で、幼馴染が申し訳なさそうに前置きをすると言うことは、やはり完全には普段の調子を装えていないということか。

当然だ。

骨の髄まで染み込んだ統率者としての在り方が、危機への対処を開始させたものの、真昼個人の思いは実に投げやりなのだから。

綾瀬や歌音、逸見に大勢の使用人たち。

守るべき者たちがいなければ、どんな事態に見舞われようと、真昼は身動ぎすらしなかったかもしれない。

失った存在は、彼にとって大き過ぎる。

「今、報告が入ったんだ。敵だよ」
「規模は?」
「そう多くはない。ただ、どうも軍ではないみたいなんだ」
「民間か……俺も随分と表舞台から遠ざかったものだ」

一般人が武装して接近しているとは。

改めて日蔭者になったのだと痛感し、自嘲するように呟いた。

痛ましげな表情を見せた綾瀬だったが、余計なことは口にせず指示を促す。

「すでに逸見くんが動きだしているけど、どうする」
「……こちらから仕掛けることは許可しない。城にて応戦、一階エントランスまでで片をつけろ」
「分かった」
「念のために、非戦闘員は避難させておけ。民間程度では必要ないかもしれないが、万が一のこともある」

相手は首肯をすると、すぐに踵を返して部屋を後にした。

その後ろ姿をぼんやりと見送り、ふぅっと脱力する。

随分とこの城に住んでいるが、襲撃など滅多に起こることではない。

街に帰した少年が、真昼の存在を知らせ討伐に乗り出したのではないか。

考えずとも簡単に出て来る疑惑は、しかしあっさりと棄却される。

千影がこちらを裏切るような真似をするとは、真昼はもちろん城の誰一人として思ってはいないだろう。

偶然にも重なっただけのことだ。

男は運が悪いと小さく苦笑を洩らすと、迎撃の指揮を部下たちに任せて、再び扉を閉めるのだった。

情けないと自覚はしているが、もう二度と顔を合わせることのない存在を思うと、感情が理性を凌駕するのである。




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