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心根の話しだったけれど、教えるつもりはなかった。
面と向かって話すには、言う方も聞く方も恥ずかし過ぎる。
答えを告げるつもりがないと伝わったのか、彼は読みかけの本を開いた。
昨日と違う一冊は、ライブラリーから持って来たのだろう。
文字を追いかける横顔を、千影はカップに口をつけつつぼんやりと眺めた。
暖炉の赤橙色を受けて、銀の仮面が甘く光っている。
高い鼻梁や薄い唇、すっきりとした顎がその下にある。
ふと思ったのは、彼の顔の造作は整っているのではないかということ。
皮膚の上を錯綜する醜い痣や、発達し過ぎた犬歯などで気付かなかったけれど、まじまじと観察してみればあり得ない話ではない。
連なる文字をなぞっていたはずの黒眼が、すいとこちらを流し見た。
「なんだ」
「……」
「言え。人の顔を見るだけ見ておいて、無言が通ると思うか?」
相手の言い分はもっともだが、躊躇ってしまう。
果たして自分などが触れていい話題なのかどうか。
鎖を連想させる痣が、どのような理由で刻まれたのかは知らないし、もしかすれば目元にひどい怪我の痕が残っているのかもしれない。
それを隠すためのマスクなのだとしたら、千影の質問は真昼にとって不快でしかないはず。
仮に地雷であったならば、西の塔の再来となる。
「千影」
男の催促に、引き下がるつもりがないのだと察して観念する。
千影はひっそりと深呼吸を挟んだ。
「あの、失礼になるかもしれないんですけど」
「構わない、言ってみろ」
逡巡しながらも、再度促されて口を開く。
「どうして仮面なんて着けているんですか?」
音にすれば彼の顔がゆっくりとこちらに向けられた。
深淵なる漆黒には、少年が懸念するような怒りや不機嫌さなどは感じられないけれど、真っ直ぐに射抜かれ全身が緊張する。
結んだ視線の中にひどく凪いだ感情を見つけ、わけもなく胸がざわめいた。
握り込んだ掌に滲んだ汗と、浅くなる呼吸。
長くもない沈黙に、喉の奥が引きつれる。
やがて彼は、静かに言を紡いだ。
「俺が、怖いか」
突然の質問に面食らう。
耳朶を滑ってから脳に到達するまでに、僅かの時差が起こる。
硬直をしている内に、真昼は問いを重ねた。
「俺は、醜いか」
一度目の衝撃によって道は生まれていたのか、今度は先ほどよりも簡単に思考の中枢へ声が届いた。
だが、何を持っての問いなのか、理解が出来ずに唇は開かない。
どういう意味かと訊ねようにも、真剣な眼にこちらからの疑問符は奪われる。
今、千影は問い返してはならない。
今、千影に求められているのは回答だ。
真昼はすべての意識をこちらに注ぎ、待っている。
真摯で真っ直ぐな想いに、正面から対峙するのは義務だった。
千影が短い返事を渡したのは、十分な時間が経ってから。
困惑も恥じらいもない、己が映る眼と同じ静かな目で、ただ一言を。
「いいえ」
根底からの気持ちを、贈る。
息を呑む音が、聞こえた気がした。
張り詰めた空気が、震えた気がした。
千影は決然とした面持ちで、揺るぎない否定を示すかのように、微動だにしなかった。
恐ろしかった。
初めて出会ったときは、本物の魔王が顕現したのではないかと慄いた。
肌を這う鎖の痣、鋭く長い爪、獣を連想させる牙。
宵よりも深く濃厚な、漆黒から生まれた闇の化身にしか、見えなかった。
腹が立った。
理不尽な理由で城に幽閉され、自由を奪った彼に怒り以外の感情が湧き出る隙間はなかった。
傲慢な城主、横暴な支配者、身勝手な魔王。
姿かたちの恐ろしさなど忘れ、憤りと反発心のままに、その存在を撥ねつけた。
嬉しかった。
部屋に閉じこもる身を案じてくれたり、配慮に欠けた行動を取ったにも関わらず吹雪の中、狼の群れから守ってくれた。
解りづらい人、懐深い人、優しい人。
秘められた優しさに触れてしまえば、もっと深く知りたくなって、もっと近づきたくなった。
今は欠片たりとも、貴方を恐れていない。
彼を示す色は黒。
宵よりも深く濃厚な、闇の色。
静謐で柔らかく甘い、美しい色。
今も欠片たりとも、貴方を醜いとは思えない。
「いいえ」
「……」
「あなたにその言葉ほど、似合わないものはありません」
断言できる。
彼の瞳を正面から見つめて、断言できるのだ。
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