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「痛みますか?」
「いや」
「すいません」
「……爪に引っかけられただけだ。傷は深くない」
ぱちぱちと薪の爆ぜる音色が、煌々と燃える暖炉から流れる。
それ以外の物音は、途切れがちに交わす二人の会話だけで、やけに静かだ。
一人がけのソファに身を置く男の腕を取り、千影は消毒を終えた患部に包帯を巻いていた。
本人の弁通り、傷は浅く血はすぐに止まった。
大事にならなくて本当に良かったと安堵すると共に、身を呈して守ってくれた真昼への感謝でいっぱいになる。
「どうして外に出た。この辺りは狼が群生していると知っているはずだろう」
「え……。貴方が出て行けと言ったから、です」
何を今更。
無謀な真似をしたのは千影だが、追放を言い渡したのは真昼だ。
よもや忘れてはいないだろう。
困惑に首を傾げると、相手は不機嫌な調子で言った。
「言葉のアヤだと分からないのか」
「なっ、あれだけ強く言われれば、本心だと思わないはずがないでしょう」
「俺は部屋から出て行けと言ったんだ」
確かに記憶のどこを探してみても、彼が「城から」出て行けと言った事実は見つからない。
それでも恐ろしいまでの剣幕で突き放されれば、勘違いだってしてしまう。
反論は無理だが納得もし兼ねて、不満げに相手を見上げる。
黒い虹彩はこちらを映しはいない。
「お前があの部屋に入ったのが悪い」
「……」
さらりと言われたもっともな指摘に、千影は黙り込んだ。
自覚があるだけに、視線による反抗も出来なかった。
言いつけを破って部屋に入るは、外へと飛び出し狼に襲われるは。
迷惑ばかりかけてしまっている。
そんな厄介者を助けに来てくれた真昼に、心底申し訳なさが募った。
「あの、本当にごめ――」
「悪かった」
こちらのセリフを遮って紡がれた内容に、眼が限界まで開かれた。
予想外もいいところで、信じられない。
聞き間違いを疑っていると、もう一度。
「悪かった、頭に血が上っていた。もっと言い方があったと思う」
逸れていた目線を真っ向から注がれ、真摯な響きの謝罪。
今度こそ受け入れぬわけにはいかなくて、千影は慌てて首を振った。
「そんなっ、悪いのは俺です!貴方が入るなと言ったのに、言いつけを破って……」
「千影」
「俺、貴方にお礼を言うつもりだったんです」
「お礼?」
訝しげに問われ、こくりと首肯した。
「食事を取らない俺を、心配してくれただろ」
ずっと言いたかった。
千影が食堂を訪れるようになってから、彼は一度として姿を見せなくて、中々機会が訪れなかったけれど。
言いたくて、言わなくてはならなくて。
「入るなって言っていたから、きっとあそこが貴方の部屋なんだと思って。それで、お礼を言いに」
「あれは俺が無茶を言った。フォローをするのは当然だ」
お礼を言うことではないと告げられるも、そんなわけにはいかない。
俺様極まりない傲慢魔王だけれど、きちんと優しさを有していると知ってしまったのだ。
これまでは欠片ばかりだったが、今日助けに来てくれたことで、ようやくその気持ちに正面から対峙できた気がするのだ。
どうしてもいらないと言うのなら。
「じゃあ、このお礼だけは受け取って下さい」
せめてこれだけは、万感の想いを込めて音にするから、受け取って欲しい。
「助けてくれて、ありがとうございました」
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