往生際悪くノブを押すや、呆気なく開いてしまって面食らった。

訪ねたのは自分だが、いざ道が開けると戸惑ってしまう。

室内には小さな蝋燭の灯りがいくつかゆらめていて、少年は思い切って内側に踏み入った。

火がついているのならば、無人ではないはずだ。

「あの、真昼……さん?いますか?」

思いの外、広い部屋には必要最低限の調度品があるばかりで、これまで目にして来たどの部屋よりも閑散とした印象を受ける。

奥にはもう一つ扉があり続き部屋となっているらしい。

もしやそちらにいるせいで、ノック音が届かなかったのでは。

千影にとっては重要な用事であっとしても、無断入室の後ろめたさは拭えず、そろりそろりと進む。

暖炉の上に大きな額縁が掛けられていると気付いたのは、偶然だった。

オレンジの灯りで斑に照らされた作品は、肖像画である。

胸より上が描かれているも、肝心の顔の部分が無残に切り裂かれ、カンバスが剥がれている。

どうしてこんな有様の絵を飾っているのか怪訝に思ったのと、バルコニーの窓が風で音を立てたのは同時だった。

びくりっと肩を震わせてしまった自分に苦笑しつつ、いつの間やら雪がちらつき始めた屋外を確認しようと窓辺に寄って行く。

と、窓のすぐ傍に置かれたテーブルが目にとまった。

「薔薇?」

ガラスケースの中で支えもなく身を起しているのは、深紅の花弁が鮮やかな一輪の薔薇だ。

大振りの花冠のためか首が下がってはいるものの、見る者を惹きつける不可思議な魅力を放っている。

まるで魔法にでもかかったように、眼が離せない。

誘われるように一歩、また一歩と近づいていた。

自然と持ち上がった両の手が、ガラスケースを外すのをどこか他人事のようにしか捉えられない。

露わになった濃紅の宝石に、ゆっくりと手を伸ばす。

千影の細く長い指先が、ビロードの一片に触れる寸前だった。

絶対的な力で手首を拘束したのは、以前と同じ大きな掌。

鋭く尖った爪が皮膚に食い込み、チリッとした痛覚が少年を我に返した。

「あ……」

導かれるが如く見上げた先には、探していたはずの男が立っていた。

幾筋もの痣が這う面には、銀の仮面。

その奥からこちら見下ろす漆黒の双眸に、明確な怒気を見とめ息を呑む。

「なぜ、ここにいる。ゴミ虫」
「あの、迷ってしまっ……っ!」
「西の塔には近づくな。最初に言った言葉を忘れたか?」

言い訳など不要とばかりに、手首を絞める力が増して骨が軋む。

爪痕を刻む刃に柳眉が歪んでしまう。

初対面のときとは比較にならない激情が、室内いっぱいに満たされて息苦しい。

制圧をする支配者の気迫ではなく、感情から生じる純粋な憤怒の念。

正直なところ、彼がここまで怒るとは考えもしなかった。

立ち入りを禁止したのは、単に己の私室だからではないのか。

踏み込んではならぬ領域に侵入してしまったことを理解して、千影は自分の浅慮を心から悔いた。

「ごめんなさい、本当に、すいませんっ」

悪気があったわけではない。

ただ、中々姿を現さない真昼に会える好機と思っただけ。

道を訊ねるのを口実に、胸に秘めていたフレーズを伝えようとしただけだ。

不機嫌にさせたくなどないのに。

灼熱の眼光が突き刺さるのを感じていても、黒々とした眼を見返す勇気などあるはずもなく、足元を凝視するばかり。

罵声も嫌味もぶつけられず、謝罪が虚しく消えて行く。

重い沈黙が居た堪れない。

依然として腕を掴まれたままだから、身動きも取れずに硬直していると、唐突に戒めから解放された。

扉に向かって乱暴に突き飛ばされる。

持ち前の反射神経でどうにか倒れることはなかったけれど、ぎょっと目を見開いて相手を見やった。

「出て行け」
「っ」
「ここから、今すぐに出て行けっ!」

初めて耳にした強い語調は、少年の身体を貫いた。

幽閉を言い渡した人物が、追放を命じてしまうくらいのことを仕出かしてしまったなんて。

最低だ。

臨界点を突破した己への嫌悪感に理性が破砕され、弾かれるように部屋を飛び出した。

上って来たばかりの小さな階段を転がるように下り、闇雲に廊下を駆け抜ける。

さっきは一向に見つからなかった下り階段を、今度はあっさりと見つけ出し二階へ戻ると、千影はそのまま一階の厩舎まで走った。

外套も羽織らぬ軽装で、愛馬に跨るや吹雪く森へと手綱を操っていた。

先ほど様子を窺ったときには、儚い粉雪だったのに、今やあの日に匹敵するほどに外は荒れている。

たちまち凍りつく身体を無視して、ただひたすらに馬を走らせた。

何をやっているのだろう。

道を失ってあの城へ辿りついたのだから、街への帰り方など知るはずがないのに。

このまま行けば、どうなるかなど明らかだ。

分かっていても、引き返せない。

引き返してはならない。

千影は傷つけてしまったのだから。




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