◇
「あのね、警備のことで少し相談したいことがあるんだ」
「新しい動きがあったんですね。分かりました。悪い、仕事が入った。案内は明日でも構わないか?」
「俺のことは気にしないで下さい。一人でも見て回れますから」
緊迫した二人のやり取りにことの重要性を悟る。
もともと、暇つぶしとして案内をお願いしたのだし、逸見に仕事があることは理解している。
今まで時間を割いてくれただけで十分だ。
「大丈夫です、仕事に行って下さい。忙しいのに案内してくれて、有難うございました」
そうして二人の背中を見送った千影が迷子になるのは、しばらくの後だった。
二階を見学し終えるまでは順調だったのに、三階へ上がったところで次第に道が分からなくなり始めた。
同じような廊下ばかりの上に複雑な構造をしていては、方向感覚など大した役にも立たない。
まんまと防犯対策にハマってしまった。
使用人の誰かとすれ違いもしないから、部屋への戻り方を訊ねることも出来ない。
「やっちゃった……」
立ち止まっていてもどうにもならぬと、前に進み続けるも、一向に階下へ降りる階段が出てこないのはどうしてだろう。
どのフロアも天井が驚くほどに高い点から、ここよりも上階はないであろうとは推察できる。
昇り階段が出てこないのは分かるが、下りも見当たらないとは如何なものか。
三階へ来る際に使った階段の場所など、当の昔に見失っているために、引き返せもしなかった。
情けない自分に呆れ果てつつ歩み続けていた千影は、不意に足を止めた。
「え?」
短い一音が唇から零れる。
長い睫毛に縁取られた、穏やかなブラウンの眼が捉えたのは、紛れもなく階段だった。
それも、探している下りではなく、上りの。
四階はないと考えていたけれど、実はあるのだろうか。
それにしては、これまで足を掛けて来た階段に比べて、随分と狭く小さい。
普通の民家の階段よりも、少々ゆとりがある程度だ。
「あっ」
脳裏を過ったのは、初めて城を訪れた日の記憶。
銀色の仮面をつけた魔王は、こう言っていた。
――西の塔にさえ立ち入らなければ、あとは好きに使うといい
「西の塔って……この先、とか?」
フロア自体は三階まででも、塔ならばあり得る。
だから、これまでよりもずっと小さい階段なのだ。
迷った末とは言え、唯一立ち入りを禁じられている場所まで来てしまったとは。
早々に立ち去るが得策なのは明らか。
千影が行きたい場所は西の塔ではなく自室なのだし、別の道を行こう。
踵を返しかけた少年が、思い留まったのは次のときである。
どうしてこの塔だけ入ってはならないのだろう。
他の場所は自由に使用して構わないと言われているのに、塔一つだけなど不可解だ。
「そういや、あの人の部屋ってどこだ」
一階から三階まで見て来たが、魔王の私室はなかった。
特に三階は、帰り途を訊ねる相手を探していたため、片っぱしから扉を開けたのだ。
ゲストルームと城主の部屋が同じ階にあるとは考えにくいから、このフロアになければ一体真昼の部屋はどこだと言うのか。
思考の行きつく先は、立ち入るなと命じられた西の塔である。
これほど広い城に住んでいながら、わざわざ狭い塔にプライベートな空間を設ける理由は分からないが、きっとそうだ。
間違いない。
だとすれば、少年が取るべき行動は一つだけ。
躊躇うことなく、上り階段を進む。
この上が真昼の部屋ならば、高い確率で彼がいるはず。
言いつけを破るのは本意ではないが、迷ってしまったのだから勘弁してくれ。
部屋への戻り方を訊く程度ならば構わないだろう。
それに、千影には言わなければならない言葉があった。
この数日間、ずっと言いたかった言葉が。
階段を上り切ると、すぐに扉があった。
一見しただけでは味気のない無愛想な黒い扉だが、注視するとドアノブは勿論、蝶番にまで細かな彫りがあしらわれていると分かる。
扉の表面は控えめな光彩を散らしていた。
手の込んだ細工は、千影の確信を裏打ちするようだ。
若干の緊張を覚えつつ、ノック。
コンコンッと、他に音のない世界の大気が揺れる。
「すいません、千影です」
ドアの向こう側に呼び掛けた。
応答はない。
不在なのだろうか。
もし主が在室しているのなら、命令に背いた千影を無視するはずがない。
これまでを鑑みれば、罰を与えるためにすぐに扉を開けると思う。
物音さえ聞こえないということは、やはり無人なのか。
それでは困る。
次はいつ真昼に会えるか分からないのだから、この機会を逃してはならない。
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