◇
うっかり「魔王」と言いかけて、慌てて名前に言い換えた。
ドア枠に寄りかかり腕を組む男は、数日前と同じように黒いマントを肩に羽織っていた。
銀の仮面の奥から、あの目がこちらを見つめる。
「俺の誘いを断ってまで、引きこもりを続けるつもりか」
「どうせ俺はこの先ずっとここにいるんです。気が触れておかしくなったら、その晩餐を受けるかもしれません」
怯みそうな己を律し、茶色の瞳で真っ向から受け止めた。
千影の痛烈な嫌味は、果たして彼に何をもたらすのか。
仮面という妨害によって、真昼の表情の変化は分かり難いから、次の句を待つばかりだ。
「そうか……。綾瀬、今後こいつに食事を与えるな」
「ちょっと真昼っ、なに言ってるの!」
ぎょっとしたのは千影ばかりではなかった。
批難の声が聞こえていないのか、真昼は綾瀬の方などチラとも見ずに、眼を見開いたままの千影を視界に入れ続けた。
「俺と共に食堂のテーブルにつかない限り、お前の食事を用意することはない。飢え死にをしたくなければ、早々に考えと態度を改めろ。囚人」
「っなんだよ、それ!おい、ちょっと待て……」
あまりの処遇に不満を投げつけようと、魔王は素知らぬ態度で去って行ってしまった。
どういうつもりかと、綾瀬もその後を慌てて追いかける。
残された一人きりの空間で、千影は寝台へと突っ伏した。
「ふざけんなっ、傲慢魔王!!」
振り下ろした握り拳が、ドスッとシーツに沈む。
最低だとは分かっていたが、まさかここまで非情な真似をするとは思いもよらなかった。
本気なのだろうかと疑うことも出来ないのは、あの男の第一の傲慢発言が、現在進行形で執行されているからだ。
城に閉じ込めるだけでは飽き足らず、食事まで止めるなんて、殺すつもりなのか。
非人道的な仕打ちに、恐怖心を突き抜けて憤りに支配される。
やり場のない感情の昂ぶりを潰すように、枕に顔を埋めた。
「飢え死には嫌だ……」
でも。
「あいつと食事するのは、もっと嫌だ」
くぐもった声は本心。
完全に火のついた闘争心が、千影に妙な意地を張らせた瞬間である。
どれほど真昼を罵倒してみても、どれほど真昼を恨んでみても、千影の空腹が満たされるはずがなかった。
無慈悲なセリフを浴びせられたのは、昨日の夕刻。
あれからすでに二度目の夜がやって来たが、その間千影が口に入れたものと言えば、歌音の運んで来る紅茶と水のみで、腹から音も鳴らなくなっていた。
「腹減った……」
時間を持て余す千影が、ここ数日部屋に閉じこもっていられたのは、逃亡方法を考えていたからなのだが、空腹に陥っては思考回路が正常に働くわけもない。
やけにゆっくりと過ぎる時間に、絶望にも似た苛立ちが湧き上がる。
まとまらない考えがそれを増長させ、何をするでもなくベッドの上に倒れ込む。
本当にこのまま餓死をしてしまうのではないか。
あの男は、やはり自分を殺すつもりなのではないか。
ネガティブな考えがぼんやりと浮かんで来るものの、彼に赦しを乞うつもりは露ほどもない。
共に食卓につく気だって、ない。
千影の意志は変わるどころか、言い渡されたときよりもずっと強固になっていた。
あぁ、今ごろ街はどうなっているのだろう。
そろそろ仁志は自分の不在に気付いたかもしれない。
木崎がまだ帰宅していないといいのだけれど。
心配させたくない大切な人たちを思い、深い深い溜息をつく。
それなのに、悲しいかな。
気付けば温かい食事を求める己がいて、自己嫌悪になりそうだ。
華奢な体つきから誤解を受けやすいが、千影は決して小食なわけではない。
十七歳という成長期の男子らしい食欲を持っている。
一日半も固形物を胃袋に入れていなければ、肉体的にも精神的にも追い詰められてしまう。
城から出られない身の上では、城主の命令は絶対的だ。
この先、千影に食事が与えられる可能性は限りなく低い。
あの傲慢極まりない魔王の態度を鑑みれば、気紛れが起こらない限り無理だろう。
死を覚悟した方がいいかもしれないと、極端な決意をし始めたとき、微かな音が鼓膜を打った。
意識が朦朧としていたらしく、何時の間にやら下りていた目蓋を持ち上げると、再び聞こえた来訪者の合図。
慌ててベッドから飛び起き、ドアノブを捻った。
「すいません、お待たせしました!」
「こんばんは、千影くん」
立っていたのは、歌音だった。
オレンジ髪の中から真っ白の兎耳を生やした彼は、労わるような微笑みでこちらを見上げる。
食事を禁じられた千影を心配して、昨夜からたびたび部屋を訪れてくれていた歌音の手には、気休めの紅茶の盆が決まってあったのだけれど、今回は手ぶらだ。
何用かと首を傾げた。
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