うっかり「魔王」と言いかけて、慌てて名前に言い換えた。

ドア枠に寄りかかり腕を組む男は、数日前と同じように黒いマントを肩に羽織っていた。

銀の仮面の奥から、あの目がこちらを見つめる。

「俺の誘いを断ってまで、引きこもりを続けるつもりか」
「どうせ俺はこの先ずっとここにいるんです。気が触れておかしくなったら、その晩餐を受けるかもしれません」

怯みそうな己を律し、茶色の瞳で真っ向から受け止めた。

千影の痛烈な嫌味は、果たして彼に何をもたらすのか。

仮面という妨害によって、真昼の表情の変化は分かり難いから、次の句を待つばかりだ。

「そうか……。綾瀬、今後こいつに食事を与えるな」
「ちょっと真昼っ、なに言ってるの!」

ぎょっとしたのは千影ばかりではなかった。

批難の声が聞こえていないのか、真昼は綾瀬の方などチラとも見ずに、眼を見開いたままの千影を視界に入れ続けた。

「俺と共に食堂のテーブルにつかない限り、お前の食事を用意することはない。飢え死にをしたくなければ、早々に考えと態度を改めろ。囚人」
「っなんだよ、それ!おい、ちょっと待て……」

あまりの処遇に不満を投げつけようと、魔王は素知らぬ態度で去って行ってしまった。

どういうつもりかと、綾瀬もその後を慌てて追いかける。

残された一人きりの空間で、千影は寝台へと突っ伏した。

「ふざけんなっ、傲慢魔王!!」

振り下ろした握り拳が、ドスッとシーツに沈む。

最低だとは分かっていたが、まさかここまで非情な真似をするとは思いもよらなかった。

本気なのだろうかと疑うことも出来ないのは、あの男の第一の傲慢発言が、現在進行形で執行されているからだ。

城に閉じ込めるだけでは飽き足らず、食事まで止めるなんて、殺すつもりなのか。

非人道的な仕打ちに、恐怖心を突き抜けて憤りに支配される。

やり場のない感情の昂ぶりを潰すように、枕に顔を埋めた。

「飢え死には嫌だ……」

でも。

「あいつと食事するのは、もっと嫌だ」

くぐもった声は本心。

完全に火のついた闘争心が、千影に妙な意地を張らせた瞬間である。

どれほど真昼を罵倒してみても、どれほど真昼を恨んでみても、千影の空腹が満たされるはずがなかった。

無慈悲なセリフを浴びせられたのは、昨日の夕刻。

あれからすでに二度目の夜がやって来たが、その間千影が口に入れたものと言えば、歌音の運んで来る紅茶と水のみで、腹から音も鳴らなくなっていた。

「腹減った……」

時間を持て余す千影が、ここ数日部屋に閉じこもっていられたのは、逃亡方法を考えていたからなのだが、空腹に陥っては思考回路が正常に働くわけもない。

やけにゆっくりと過ぎる時間に、絶望にも似た苛立ちが湧き上がる。

まとまらない考えがそれを増長させ、何をするでもなくベッドの上に倒れ込む。

本当にこのまま餓死をしてしまうのではないか。

あの男は、やはり自分を殺すつもりなのではないか。

ネガティブな考えがぼんやりと浮かんで来るものの、彼に赦しを乞うつもりは露ほどもない。

共に食卓につく気だって、ない。

千影の意志は変わるどころか、言い渡されたときよりもずっと強固になっていた。

あぁ、今ごろ街はどうなっているのだろう。

そろそろ仁志は自分の不在に気付いたかもしれない。

木崎がまだ帰宅していないといいのだけれど。

心配させたくない大切な人たちを思い、深い深い溜息をつく。

それなのに、悲しいかな。

気付けば温かい食事を求める己がいて、自己嫌悪になりそうだ。

華奢な体つきから誤解を受けやすいが、千影は決して小食なわけではない。

十七歳という成長期の男子らしい食欲を持っている。

一日半も固形物を胃袋に入れていなければ、肉体的にも精神的にも追い詰められてしまう。

城から出られない身の上では、城主の命令は絶対的だ。

この先、千影に食事が与えられる可能性は限りなく低い。

あの傲慢極まりない魔王の態度を鑑みれば、気紛れが起こらない限り無理だろう。

死を覚悟した方がいいかもしれないと、極端な決意をし始めたとき、微かな音が鼓膜を打った。

意識が朦朧としていたらしく、何時の間にやら下りていた目蓋を持ち上げると、再び聞こえた来訪者の合図。

慌ててベッドから飛び起き、ドアノブを捻った。

「すいません、お待たせしました!」
「こんばんは、千影くん」

立っていたのは、歌音だった。

オレンジ髪の中から真っ白の兎耳を生やした彼は、労わるような微笑みでこちらを見上げる。

食事を禁じられた千影を心配して、昨夜からたびたび部屋を訪れてくれていた歌音の手には、気休めの紅茶の盆が決まってあったのだけれど、今回は手ぶらだ。

何用かと首を傾げた。




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