すぐには理解できぬ暴言よりも、それを吐き出した口元に驚愕した。

鎖。

唇の端、頬、鼻の下、纏ったシャツの襟元から見える首筋にまで走った、禍々しい青い痣はまるで鎖のような形で、相手の全身に巻きついている。

網膜に焼き付いてしまったビジョンに目を瞬くこと数回。

彫像さながら動きを停止していた千影は、カップを持つ手を上方へと引っ張られ、勢い余ってソファから立ち上がった。

手首を捉えたその手にも、鎖を連想させる痣はあったが、骨が軋む威力で拘束されては気にしている場合ではない。

骨ばった指先に備わった、獣のような爪が皮膚に食い込んだ。

「いっ……」

血流が堰きとめられ、無様に震えたそこから繊細な柄のカップが脱落する。

割れることはなかったけれど、絨毯の上に飲みかけの紅茶が染み込んで、深い赤を暗色に変えてしまった。

「なにをっ」
「それが誰の椅子か分かるか、ゴミ」
「知るかよ、とにかく離せ」
「断る。どこぞの侵入者が寛いでいた席は、誰のものだったのか気付いたはずだ。さぁ、答えをもらおうか」

不遜なセリフを並べる口の内側にある糸切り歯は、牙と呼んで差支えがないほど。

肉食獣に見受けられる身体的特徴に、はっと相手のまっさらな黒髪に目を投げた千影は、見つけてしまった。

天井に向かってひっそりと、けれど確かに生える二本の角を。

猫、兎、犬。

これまでも驚きの連続だが、彼は別格だ。

瞠目すると共に、畏怖さえ感じてしまう。

浮かんだ単語が、意志を離れた場所で転がり出た。

「魔、王……」

身に纏う上質の服やマントまで、怜悧な双眸と同色で揃えた男は、闇の底から生まれた帝王と称するが相応しい。

溢れだす覇気とも言うべき威圧感は凄まじく、他の者ならば自ら膝を屈していることだろう。

冷たい汗が背筋を伝い落ちるのを感じながら、不自然に力の抜け落ちて行く無様な己の掌に唇を引き結んだ。

「魔王、か。随分な物言いだな、ゴミ風情が」
「貴方が、この城……この椅子の主ですか?」
「……そうだ。俺の許可なくこの城に踏み入ることは認めない。綾瀬、お前が入れたのか」

面を伏せていた三人の執事の内、反応を示したのは猫耳の男だった。

殺気さえ滲む詰問に、対する綾瀬はうろたえもしない。

「そうだよ。狼に襲われた上に、吹雪のせいで道が分からなくなっちゃったらしいんだ。人助けをするのは当然でしょう?」
「自分の立場を忘れるな。立派な越権行為だぞ」
「待って下さい、俺が――」
「黙れ。ゴミに発言権があると思うのか、焼却処分にするぞ」

にべもなく遮られて、先ほどから腹の奥で存在を主張し始めていたものが、一気に膨れ上がった。

駄目だ。

ここは我慢をするべきだ。

「綾瀬、よくもこんな身元の知れぬ輩を招き入れてくれたものだな。歌音、逸見、お前たちも同罪だ」

今、この男の怒りを煽って森へと放り出されれば、困るのは己なのだから。

何を言われても大人しくしていなければ。

「俺が気付かなかったら、コレをどうするつもりだった。ゴミを拾って来るとは、お前もよほどの物好きだな」

大人しく、していなければならないのに。

抑え込んでいた感情が、恐怖と理性を凌駕した。

「この、傲慢魔王っっ!!」
「っ!?」

身に付けた技術によって、強固な拘束を勢いよく振り払うと、千影は力のある眼光で仮面の奥にある黒い輝きを睨み据えた。

自分よりもずっと小柄で華奢な少年が、それだけの実力を有しているなどとは露ほども考えていなかったのか、動揺から立ち直った男がこちらを見据えるまでの数秒の間に、間合いの分だけ距離を取る。

「いい加減にしろよ。ご立派なご主人様のくせに、教養の欠片もないなんて仕える方が迷惑だと思わないのか?」
「……今、なんと言った」
「親切心がないどころか、初対面の人間をゴミ呼ばわりする教養なしって言ったんだよ」

急変した千影の態度に、相手の醸し出すオーラが氷点下にまで冷えて行く。

致命傷となり得る眼に貫かれたところで、怯む気はなかった。

生憎、沸点は高くない。

「助けを求めてる人間に対して、追い打ちをかける非道なご主人様には、教養を求めるだけ無駄ってこと?」
「お前は自分がその「助けを求める人間」であることを失念しているようだな。俺の一存ですべてが決まることくらい理解できないのか」

確かにこの場において弱者にあるのは千影だが、こんな男に媚びるなんて真っ平だ。

人の足元を見た切り返しに、全身の血液が沸騰寸前にまで沸き立った。

「遭難者を一晩泊める程度の蓄えもないのかよっ。あぁ、貴方みたいな人が仕切っているんじゃ納得です」
「ふざけるな、お前の生涯賃金の数百倍は稼いでいる」
「じゃあないのは人としての良心かボランティア精神ですね」
「……そんなにここに泊まりたいのか」
「狼の餌になりたいと思う?」

両者一歩も譲らぬ睨み合いは、狭間の空気をぎりぎりと圧迫し今にも破裂しそうだ。

誰もが沈黙をした時間は、どれほどの長さであっただろうか。

張り詰めた糸を緩めたのは、魔王が先だった。

底冷えのする研ぎ澄まされた瞳を、不意に眇め口角を持ち上げた。

肌の上を駆け巡る青い痣を忘れてしまうほど魅惑的な微笑みは、寛容な王を彷彿とさせる。

次に彼の唇が紡ぐ言葉を予想できた人間は、どこにもいなかった。

「いいだろう」
「え?」
「望み通りこの城に泊るといい、永遠にな」
「はっ!?」

どんな嫌味が飛び出すかと身構えていた意味もないほど、予想の遥か上を行った発言。

あまりの衝撃に愕然とした隙に、ふっと伸ばされたあの掌が、再び千影の腕を引き寄せた。

間近に見えるおぞましい面の中で、銀色の仮面を困惑に彩られた表情で見上げれば、やけに真っ直ぐな漆黒の意志が待っていた。

「残りの生涯をこの城で送らせてやる、有難く思え。囚われの迷子」

魔王が下した断罪は、終身禁固刑。

理不尽極まりない仕打ちは、なかなか少年の頭に入っては行かない。

現実を理解するのを拒絶するかのように、思考回路は愚鈍な速度にまで落ち込んだ。

「お前、名前は?」
「ちか、げ……」
「ちかげ?」

虚ろな思いで紡ぐも、頼りない音に疑問符が返される。

あぁ、正直に答える必要などないのに。

こんな男に、名前など教えたところでいいことなどありはしないのに。

小さく聞こえる理性の嘆息は、やけに遠くて聞き取りづらいから。

「俺は、千影」
「そうか。俺のことは真昼と呼べ、千影」
「ま……ひる……真昼」

操り人形が如く従順に、音を舌に乗せた。

自分が何を唱えたかなど、少しも分からないまま。

誰の息遣いすらも聞こえぬ室内で、千影が呼ぶ男の名前はやけに響く。

「……綾瀬、こいつに部屋を与えろ。千影、西の塔にさえ立ち入らなければ、あとは好きに使うといい」
「え……あっ」

はっと我に返ったときには、すでにすべては決定されていた。

いつの間にやら踵を返した真昼は、扉が閉じる直前に、一度だけこちらを振り返った。

「この先の長い時を、十分に楽しむといい。この城でな」

すべてを貫く一対の漆黒が、扉の向こうに消えてしまっても、千影の脳裏から離れることは終ぞなかった。




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