◇
「お待たせしました。それで、どうされたんですか?」
眼前で立ち止まったのは、一人の男性。
女性と見紛うような華奢な体つきに、甘栗色の長い髪、たおやかな面立ちは優美に整っている。
これだけ見れば、ぼんやりと見惚れるに値するのだが、眼前で微笑む人物には明らかに奇妙な点があった。
それも、複数。
「猫……」
「え?あぁ、これ?」
ぽろりと零れてしまったワードを拾った相手は、こちらが硬直している理由を事もなげに指差した。
即ち、頭の上。
真っ黒な猫の耳がそこにはあったのだ。
ぴんと尖った耳は、艶やかな髪色とコントラストつくっていたが、違和感を抱かぬはずがない。
さらに執事の制服と思わしき彼の燕尾服のズボンからは、長い尻尾がにょきりと垂れている。
これで顔にヒゲが生えていたら完璧と言いたいが、流石にそこまでは再現されていなかった。
ただし、まるで代わりとでも言うように、彼の美貌の右半分は、ぴったりと張り付いた瑠璃色の仮面によって覆い隠されていた。
千影は思わず後退しかけた。
不味い、これは非常に不味い。
怪しげな城にいたのは、怪し過ぎる人物だったなんて、助けを求めるにはまるで向かない相手だ。
しかも、明らかに異常な格好をしているくせに、彼は平然としている。
この奇天烈な仮装が、日常の一部になっている何よりの証明ではないか。
「あはは、気にしないで」
朗らかに笑われても、気にならないはずがない。
混乱の坩堝に転落した千影に気付いていないのか、男は愛想よく微笑んだ。
「それで、どうしたのかな?」
「や、あの、吹雪のせいで道に迷っていたら、狼の群れに襲われまして……出来れば吹雪が収まるまで居させて欲しいなと思ったんですけど……その、やっぱり遠慮しま――」
「狼の群れ!?大丈夫だった?怪我はしてない?」
「なんとか……」
「でも顔が真っ青だ。この吹雪じゃ外は寒かったでしょう?奥の部屋へどうぞ、暖炉があるよ」
「おいで」と手招きをされても、動くことは出来なかった。
己の身を心配してくれるのは有難い。
凍えた身は暖炉の温もりを求めているのも事実。
だが、寸前までは確かに求めていた厚意を受け取るには、相手の姿は不審極まりないのだ。
城外で待ち受ける狼の軍勢は恐ろしいが、千影は今すぐ城を飛び出したい心境に駆られていた。
「どうしたの、遠慮しないで」
「でも、ご迷惑でしょうから……」
「凍えた迷子を追い返すなんて真似、するはずがないじゃない。迷惑とかそんなことは後で考えればいいから、キミはまず暖炉であったまるのが先決だよ」
そう言うと男は、どうにか逃走を図ろうとしている少年の手をやんわりと取った。
手袋の中でがちがちに冷えてしまった指先には、彼の手の感触など分かるはずもないのに、千影は真綿で包まれたような心地になった。
「ね?」
仮面にくり抜かれた右目と、素顔のままの左目に、松明の炎が映り込んで紅茶色に瞬く。
あたたかくて、優しい輝きに見据えられ、強固な警戒心がするりと解ける。
まるで彼の思いやる心に触れた気分だ。
例え格好がどれほど奇天烈でも、奇妙でも、奇怪でも。
彼が自分を案じる気持ちに嘘はないのだと、理性ではなく本能が感じ取る。
気がつけばコクンと首を縦に振って、案内されるまま後についていた。
間もなく到着した部屋に踏み入った途端、ぼぅっと温かい空気が頬を撫でた。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音につられて目を向ければ、煌々と燃える暖炉の火が眩しい。
「さ、コートはこっちに。そこに座って」
「ありがとうございます、すいません」
すっかり濡れてしまったコートを渡してから、随分と立派な一人掛けのソファに身を沈めた。
「ようこそ、お客様。紅茶はいかがですか?」
「え?」
給仕用のカートにティーセットを乗せて現われたのは、小柄な人物である。
突然の登場に、視線を合わせた。
猫耳の男とは逆に、顔の左半分を仮面で隠した相手は、元気のよいオレンジ色の髪と、澄んだ湖のような碧眼が印象的だ。
瑠璃色の欠片によって顔立ちのすべてを知ることはないが、まるで天使のような愛らしい容貌の持ち主であることは容易に窺える。
そうして、彼の頭の上では真っ白な兎の長い耳が存在を主張していた。
恐らく、ズボンからは尻尾も生えているのだろう。
「猫の次は兎か……」
「うん?」
「いえ。紅茶、いただきます」
カップに口をつけると、程よい熱さの紅茶が舌先を痺れさせた。
身体の内側からも体温を取り戻して行く感覚を覚え、千影はほっと息をつく。
ようやっと一息をいれられる状況になり、改めて目の前の光景を見つめた。
「お客様なんて珍しいけど、どうしたの?」
「吹雪のせいで迷っちゃったらしいんだ。しかも狼に追いかけられたって」
千影の経緯を説明している一人は、猫耳に猫の尻尾。
気の毒そうな表情になった一人は、兎耳に兎の尻尾。
共に燕尾服を身につけている以外に見受けられる共通点は二つ。
動物の身体的特徴と、瑠璃色のマスク。
言葉を交わす限り、彼らから危険を感じ取ることは出来ないとなれば、今更格好などどうでもいいとも思えるが、如何せん、見て見ぬふりをするのは難しい。
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