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「マジ……?」
かさつく唇で洩らすと、僅かに開いた隙間から入り込もうと雪の礫が前歯を叩いた。
手袋に守られても尚、凍える指先で広げた地図は、薄暗い森の中で風に煽られ中々読むことが出来ない。
視界を塞ぐ白い猛威と相まって、先ほどから馬の進路を定めることも出来ずにいる。
依頼人の待つ街へ向かうため、森に入って暫くした頃、空模様は豹変した。
舞い始めた雪はあっと言う間に吹雪となって、千影から行くべき道を奪ってしまった。
辺りを見回せども、連なる木々が黒い影となって直立するばかりで、今となっては己の来た方角さえ判然としない。
これは所謂、遭難というやつだろうか。
考えたくもないけれど、吹雪く森の中で迷子となったのならば、認めないわけにもいかない。
勿論、自覚したところで事態が好転するわけでもないのだが。
このまま立ち止まっていても仕方ないと、千影は手綱を引いた。
下手に動いては更に針路を見失う危険もあったが、刻々と強まる雪の嵐が収まるのを待つには場所が悪過ぎる。
しのげそうな大樹や洞窟はないかと、目を眇めて不明瞭な世界を探して回る。
馬の一歩一歩が厚く積もった雪に足跡を刻むたび、すぐに上塗りされて消えてしまうのを不安に感じながら、それでもめげずに首を廻らせていた千影は、ゴウゴウと耳を掠める風に混じって、低い唸りを聞いた気がした。
「え……」
ゾクッと背筋を駆け上った悪寒に後押しされたように、勝手に聴覚が鋭敏になる。
――グウゥゥ……
今度こそはっきりと捉えた低音に、頭の中の警報装置が一斉に目を覚ました。
馬の腹に蹴りを入れ走り出したときには、すでに唸り声の犯人が背後に迫っていた。
狼。
チラリと視線を流せば、数匹の狼が白い大地に爪を立てて追いかけて来ているではないか。
グオウオウと獰猛な叫びがすぐ近くに聞こえる。
劣悪な足場を物ともせず、正確な手綱捌きで吹雪の中を疾走するものの、敵の群れの気配が遠ざかる様子は微塵もない。
むしろ、咆哮に引き寄せられた仲間の狼が、横合いからも襲い来て冷たい息を呑みこんだ。
遭難よりも差し迫った己の危機に、千影は死に物狂いで馬を走らせ続けた。
顔面にぶつかる雪に頬がひりつく、恐怖で竦んだ身体が言うことをきかない、頭の奥が朦朧とする。
いつしかほとんど馬の意志に任せて逃走していた。
霞む瞳を見開かせたのは、馬も千影も共に息も絶え絶えとなった頃であった。
突然、黒い森が開けたと思うや、現われたのは頑強そうな鉄扉である。
まさかの思いで正面に固定していた目線を上へと持ち上げた。
暗く沈んだ吹雪よりも、ずっと重苦しい威圧感を醸し出す城が、澄んだ茶色の眼いっぱいに映し出された。
呆然と見入っていられたのは暫時。
貫くような狼たちの喚きが背中に刺さり、千影はほとんど反射的に馬から滑り下りると、門扉を力任せに押し開けた。
見た目よりもずっと容易に開いた扉に驚く余裕もなく、追い縋る狼を凝視したまま馬を引き入れ鉄扉を閉めた。
どんな仕掛けかは知らないが、鍵のかかっていないはずの鋼のバリケードは、狼たちが次々と体当たりをかまそうとも、少しも揺らぐことがない。
それでも諦めることなく扉の外で牙を剥いている数多の狩人に、安堵しかけた思いは打ち破られた。
「どうしよ……」
千影が出て来るのを待ち構えられては、外に出るなど不可能。
脅威との間に立ち塞がる門扉が、いつまで己を守ってくれるかも分からない。
危機は終わっていないのだ。
千影はゆっくりと城を振り仰いだ。
物々しい雰囲気を纏ったそれは、まるで魔王の棲み処のように思える。
果たしてどのような人物が主なのか。
千影は馬の手綱を雪がしのげる木に結わえると、生き延びるための道は一つしかないのだと言い聞かせながら、不安で駆け足になる鼓動を抱えて、恐る恐る城内へと続く扉へと手をかけた。
精緻なレリーフの彫られた扉は、鉄扉同様に重々しく見えたのだが、やはり簡単に開くことが叶い内側へと滑り込んだ。
灯りのない城内を、ぐるりと見回す。
吹き抜けのエントランスホールは広々としており、天井は驚くほど高かった。
足元に敷かれた深紅の絨毯は、奥に向かってどこまでも続いている。
外界から完全に遮断された城内は、張り詰めた静けさに満ちていて、自然と背筋が伸びる。
「あの、すいません。どなたかいらっしゃいませんか」
掠れた呼び掛けは反響し、ぐわんぐわんとたわんだ声となって幾度も少年の鼓膜を揺らす。
応答を求めて進み入ると、左右の壁に設えた松明にボッと火が点いてぎょっとした。
思わず立ち止まっている内に、火はエントランスの先の先まで灯って行き、薄暗かった空間はあたたかな明るさに包まれた。
耳慣れぬ声が届いたのは、奇術めいた現象に目を丸くしているときだ。
「あれ?どちら様ですか?」
どこから聞こえたのだろうと、首を廻らせた千影は、二階の回廊から吹き抜けを見下ろす人影を見つけた。
暗がりであるためにその姿は判然としないが、ようやく城の人間に会えたことで、全身から力が抜けて行く。
「あ、あの……」
「ちょっと待って下さい。今、そちらに下りますから」
相手はそう残すと、回廊の手すりから突き出していた首を引っ込めた。
絨毯が吸い込み損ねたパタパタという軽い足音が遠くの方で聞こえる。
ほどなくして正面から小走りでやって来る人物を認識した千影は、一度は緩んだはずの気持ちを再び引き締めるはめになった。
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