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ノックもなしに開け放たれた扉に、書類に目を通していた少年は、疲れたように嘆息をした。
桃色の薄い唇から零れた呼気の重さは、彼の端麗な面に浮かぶ表情を代弁しても有り余る。
髪と揃いの穏やかな茶色い瞳を持ち上げて、礼儀知らずの訪問者へと焦点を合わせた。
「千影、おっさんいるか?」
「仁志、この事務所に呼び鈴がついていることを、何度教えたら覚えてくれるんだ」
「今更だろ、んなこと」
「今更な現状を改善する気はないんだな……」
少年――千影は、諦めを帯びた溜息をもう一度だけ吐き出して、勝手に応接用のソファに腰を下ろした友人、仁志 秋吉のためにお茶を淹れるためデスクを立った。
日に日に冬に埋もれて行く街の外れには、看板のないオフィスがぽつんと灯りをつけている。
人の出入りもあまりないその建物が、実は腕利き探偵の事務所であることを知る者は多くない。
一体なんのオフィスだろうかと、実しやかに流れる様々な噂を助長させているのが、助手として働く少年の存在だった。
降りしきる淡雪のような白い肌、すらりと華奢な肢体。
街一番と誰もが認める麗しい容姿は、本人の意思などお構いなしに人々の注目を集めてしまう。
謎めくオフィスに勤めるミステリアスな美人、それが千影であった。
「武文は調査で留守。急ぎの用?」
熱いミルクティーを差し出しながら告げると、仁志は礼と共にマグを受け取りながらも、金髪頭の下で少しだけ眉を寄せた。
冷えた身体を温めるように一口すすり、緩んだ口で用件を語る。
「ちょっと頼みたいことがあったんだけど、留守なのかよ。こんなときに」
「一昨日行ったばかりだし、少し面倒な依頼だったから、帰るのは当分先だと思うけど」
「お前置いて行くなんて珍しいな」
至極真面目に言われ、千影は苦笑するしかない。
ここが探偵事務所であると承知している数少ない一人の仁志は、所長にして千影の保護者である木崎 武文の過保護ぶりをも心得ている。
長期任務に入る際には、実戦経験を積ませる意味も込めて、出来るだけ千影を同行させる木崎が、今度に限り溺愛する少年を残して行ったのが不思議のようだ。
デスクの上の書類を片付けながら、千影は曖昧に応じた。
「いつまでも子供じゃないし、一人で留守番くらい出来るって思ったんだろ」
「少しは子離れしたってことか?想像できねぇ……」
「仁志、お前武文のこと何だと思ってるんだよ」
「千影バカ」
見事な即答に、不正解を出せないのが辛い。
今度の件とて、少々危険が伴うからと留守番を言いつけられたのだ。
ならば尚更、ついて行くと志願した千影の心配は、木崎の相方である間垣 康介の存在によって無用のものとなった。
間垣が付いているならば、少なくとも木崎だけは無事に帰還するだろう。
「で、どんな用だったんだ?言伝くらいなら与るけど」
「いや、急ぎなんだ。戻る目処が立ってないなら、他を当たるから気にすんな」
「そう?」
「あぁ、さんきゅな。……って、お前どっか行くとこだったのか?」
デスク脇に置かれたのは、大きな鞄とコートである。
事務所内を次々と整頓して行く千影に、相手は首を傾げた。
「今日、依頼の手紙が届いてさ。話しだけでも聞きに来てくれってことだったから、俺が持ち帰って来ようと思って」
詳しい依頼内容を訊く程度ならば、助手の役目だ。
木崎が留守にしているからと言って、事務所の機能を完全に停止しては留守番の意味もない。
幸い、ここから森を越えた近隣の街に、依頼人はいると手紙に書いてあったし、今から出れば遅くとも明日には戻って来られるだろう。
「一人で平気か?」
「心配し過ぎ。武文のこと俺バカって言えなくなるぞ」
「ちげぇよアホ!!」
「仁志、ウルサイ」
過剰反応をしてくれた友人をばっさり切り捨てれば、彼は苦々しく舌打ちをした。
「……あんまり遅くならねぇうちに帰って来いよ。出がけに来て悪かったな」
「こっちこそ、依頼聞いてやれなくてゴメン。武文が帰って来たら、一応そっちに連絡入れるよ」
しっかりとコートを着込み、マフラーと手袋で防寒対策を整える。
用意していた鞄に依頼人の手紙をしまって、仁志と一緒に事務所を出た。
厩舎に繋いでいた馬に跨り、仁志に見送られて街の門を潜った千影は、金髪頭の上に広がる空を見上げた男の呟きを聞くことはなかった。
「曇ってきやがった……」
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