王子様の言う通り。




広々とした室内に満ちた、大窓から差し込む柔らかな陽光。

ビロードの天蓋がついた寝台は薔薇の香り。

身に纏う瑠璃色のアオザイは繊細な刺繍で飾られた極上品だ。

東の海洋に、まるで一粒の真珠のように浮かぶ、さして大きくもない島国の王宮で、この国の第二王子は小さな吐息を零した。

「如何なさいましたか、滸様」

茶器の用意を整えた筆頭女官に、目聡く様子を聞かれ、王子は背まで伸ばした甘栗色の髪を揺らして振り返った。

白磁器のような面にあるのは、中性的でたおやかな美貌だ。

大陸にまで届くその美しさは、各国の使者が姫と見紛う程であり、民草の間では彼をモチーフにした悲恋演劇が生まれるほどでもある。

誰もが感嘆の息を漏らす貌に、第二王子――綾瀬 滸は人間くさい笑顔を浮かべた。

「んー、なんでもないよ。お茶の支度ありがとう」

柔らかな表情にしばし見とれた女官は、彼が姫ではなかった幸運を実感した。

王子である現在でさえ、時たま血迷った求婚者が現れるのだ。

姫であれば各国の王や王子が、滸を巡って戦争もしかねない。

「もう下がってくれていいよ。彼もそろそろ来るはずだから」
「畏まりました」

王になることはない王子に頭を下げ、女官は音もなく部屋を去った。

一人になった滸は、豪奢な己の私室を見回すと、先ほどと同じ嘆息を吐き出した。

煌びやかな空間だ。

ここにあるものだけで、平民ならば一生食うに困らないだろう。

白と瑠璃、そして金の配色で統一された部屋は、滸の秀逸な容貌に見合った世界ではあったが、これらを彼が自ら望んだことはない。

陽光差し込む南の宮も。

薔薇の香り漂う大きな寝台も。

銀糸が織り込まれた瑠璃のアオザイだって。

何一つ、滸自ら「欲しい」とねだったものではない。

与えられ、甘受して来たもの。

それは、第二王子という地位においても同様だった。

ねだったものは、一つだけ。

与えられるばかりだった己が、生まれて初めて心から欲し、そうして手に入れたのは一つだけだ。

コンコンッと、やや強めのノック音が鼓膜を打ったのは、次のとき。

滸は弾かれたように動き出すと、自ら扉を開けた。

「いらっしゃい、待ってたんだ」
「お、王子っ!御自ら扉を開けて下さるなんて、危ねぇ……危険ではありませんか」

ぎょっと鋭い眼を見開く来訪者は、装飾を重視した部分よろいを着けている一人の青年だ。

染色した金髪頭の下に、無駄のないラインを描く輪郭と怜悧な双眸。

すらりと伸びた背は、こちらよりも頭一つ分高い。

仕立てのよい黒の詰襟服と、左右の腰に刷いた二振りの長剣の柄にある刻印は、彼の身分が騎士であることを示している。

地位にそぐわぬ言葉遣いを慌てて言い直す男に構わず、滸は上目で相手を覗き込んだ。

「『王子』って、それは兄上のこと?」
「っ、失礼致しました。滸様」

僅かに息を呑んだのち、寄越された名前は紛れもなく自分のものだ。

未だ言い慣れぬのか、相手の声音は少々ぎこちなかったが、彼の声で紡がれたと思うとそれだけで心が躍る。

くすんっと小さく笑って、麗しき王子は男から離れた。

テーブルの上の茶器に手をかけながら、背後の騎士に言葉を渡す。

「君が来ることは分かっていたし、ノックの仕方が仁志くんのだった。危険なんてないでしょう?」
「……ですが、俺を装った者が侵入を果たす場合もあります。俺が来るまでは、部屋に女官を留めたままでいて下さい」

彼女たちには武術の心得があります。

咎めるような口調で言われなくとも、滸とて知っている。

第一王子が玉座を譲り受けることが確定し、後継者争いに幕は下ろされたものの、王族はいつ刺客を差し向けられても不思議ではない。

身の回りを世話する人間は、すべからく鍛錬を積んだ優秀な護衛でもあった。

その護衛の頂点でもある騎士――仁志 秋吉は、扉のところに直立したままでいる。

「いつまで立ってるの?座って、お茶が入ったから」
「滸様っ」

こちらの身を案じての忠告をさらりと流せば、仁志の眉がぎゅっと寄った。

空気を通して伝わる彼の苛立ち。

ストレートな感情は、例えば怒りだとしても心地よいのだろう。

自分に向かってぶつかって来るのであれば、どんな感情であっても。

「怒らないでよ」

怒ってもいいよ。

「仁志くんの気迫、ちょっと怖いよ?」

真っ直ぐで心を刺すんだ。

「も、申し訳ありません」

あぁ、ほら。

反省の意思が流れてくる。

初めて出会ったときからそうだった。

嘘偽りなく、ありのままの心を伝えることを、恐れず厭わず真っ直ぐでいる男。

滸が生きて来た十八年の歴史の中で、初めてだった。

これほど分かりやすい人間は。

分かりやすいから。

だから、安心できる。

だから、頼れる。

だから。

惹かれる。

「ねぇ、仁志くん」
「はい、滸様」
「君がいてくれるから、僕はこんなにも無防備でいられるんだよ?」

ひゅっと、息を呑む音が部屋に響いた。

沈黙の落ちた世界に漂う彼の感情は。

「僕を、守ってくれるでしょう?」
「……仰せのままに、我が君」

真っ赤に染まった仁志の顔を予想しつつ、滸は二つのカップを手にして、背後の男を振り返った。


Fin.

化かし合いの王宮に疲れた第二王子は、裏表のない騎士にのみ心まで預けることが出来る。




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