◇
今は無人の客席も、次の街に着けば瞬く間に新しい顔で埋め尽くされる。
けれどその無数の観客の中に、己の求める人はいないのだ。
それは今の千影にとって、無人の客席と何ら変わりない。
真昼に焦がれた千影にとって、彼のいない客席に意味はない。
誰もいない客席を、これから何度目にすればいいのだろう。
何度、目にしなければならないのだろう。
考えれば考えるほど、内側に詰まった想いは膨れ上がり、息が詰まった。
千影はぐっと唇を噛み締めると、作業を続ける男たちに声をかけた。
「ごめん、みんな。最後に一曲だけ舞わせてもらえないかな」
踊子の様子に異変を感じていたのだろう。
彼らは互いに目を見合わせると、何も言わずに天幕を後にしてくれた。
その気遣いに口の中だけで礼を呟くと、千影は音もなく舞台へと上がった。
客席へ視線を向ければ、今度こそ完全に人のいなくなった世界が広がっている。
誰もいない、彼のいない、空虚で色のない世界。
七宵の夢物語の鮮やかさを知ってしまった少年にとって、己を取り巻く現在はひどく色褪せて見える。
けれど、それでいいわけがなかった。
己は踊子。
観る者に一時の夢を与える存在。
こんな心のままで舞い続けてはいけない。
だから。
ここにすべて置いて行こう。
砂漠を抜け出してしまう前に、真昼への想いを。
胸が詰まるほどの、恋情を。
楽の音もない舞台で、千影は動き出した。
舞うは七宵御伽第六夜。
己の立場と本音の狭間で懊悩しながらも、殺すことの出来ない圧倒的な恋心を叫ぶ妃の悲哀。
頑なな自己に訪れた変革に戸惑い、胸に灯った正体の知れぬ熱情に怯えつつも捨て去れない王の苦悩。
七宵御伽は理解しているつもりだった。
自分は完璧に舞うことが出来ていると自負していた。
何て浅はかだったのだろう。
妃の涙にも、王の心にも、今ほど寄り添えたことは過去にない。
千影は初めて、彼らの気持ちを真に理解したのだ。
「っ……!」
目蓋を下ろせば広がる漆黒。
艶めく夜よりも深く、極彩色の煌めきを放つ唯一絶対の色。
もう二度と、あれほど鮮やかな黒には出会えない。
さようなら。
決別の意志を込めて舞いきった千影は、荒い呼吸を繰り返しながら舞台に一滴ばかりを落とした。
手を打ち鳴らす音が鼓膜を叩いたのは、次の瞬間。
「え……?」
弾かれたように目を開けた少年は、導かれるが如くその視線を天幕の入り口へと定めた。
この一カ月、何度となく目を向けては落胆を繰り返したその場所に、人影はあった。
照明が落とされているために、その姿は判然としないけれど、千影は確信にも近い予感に声を失くした。
「相変わらず、お前の舞いは見事だな」
凛とした低音が静寂を破る。
人影は長い足を踏み出し、舞台へと歩いて来た。
闇から浮かび上がり明瞭となった姿を舞台上から捉え、千影は目を見開いた。
「悪い、遅くなった。千影」
あの夜と同じセリフを口にして、少年へ手を差し伸べたのは、砂漠の王。
否、千影が恋い焦がれ続けた男だった。
「七宵御伽に通うために政務を調整していたんだが、霜月の一件で予定が変わった。この一カ月、朝から晩まで仕事漬けでお前が国を出ていたのも知らなかった」
真昼は持ち上げた手をそのままに、身動ぎすら出来ない千影へ事の次第を語り聞かせる。
「すべて片が付いたのは今朝で、ようやく「シェヘラザード」が旅立ったと知った。すぐに追ったつもりだったんだが……一カ月も待たせてしまって悪かった」
返事をしたかった。
「そんなことはない」、「貴方は自分の務めを果たしただけだ」と、言いたかった。
「会いに来てくれて嬉しい」、「追いかけて来てくれただけでいい」と、伝えたかった。
それなのに喉は塞がったままで、どんな言葉も胸に浮かぶばかりだ。
伸ばされた手は、まだ下がらない。
「いや、違うな。お前が待っていたなどと考えるのは俺の傲慢だ」
違う、そんなことはない。
待っていた、ただひたすらに真昼を待っていた。
想いは内側に蓄積されつづけ、心はぎちぎちと悲鳴を上げる。
「待っていたのは俺だ。お前に会いたくて、会えるときを願って、ずっと待っていた。俺はお前に会いたかった」
「っ……!」
心が破裂した。
指の長い骨ばった手を掴むや力強く引き寄せられ、千影は真昼の首に抱きついた。
「傲慢なんかじゃない、俺だって会いたかった。貴方にずっと、会いたかった!」
「千影」
「会えない時間が苦しくて、なんで苦しいのか分からなくて、分かったらもっと苦しくなって……会えないなら忘れようと思ったのに!」
背中と腰を捉えた腕が、華奢な体躯を強く抱きしめる。
溢れだす千影の想いを受け止めるように、しっかりと。
「会いに行けない自分が悔しかった、貴方を探す自分が情けなかった、諦められない自分が嫌いだった」
「あぁ」
「分かりたくなんてなかった、ずっと分からないままでいたら苦しくなんてならなかった。でも、分からないままじゃいられなかった」
もっと早く気付いていれば。
このままずっと気付かずにいれば。
何度思ったことだろう。
溢れる感情は瞳からはらはらと零れ落ちた。
首筋を濡らす感触に真昼は腕を緩め、頬に軌跡を作る千影の顔を真っ直ぐに捉えた。
千影が知る中でもっとも美しい黒曜石の双眸が、心を貫く。
「この涙が俺のせいだとしたら、俺は報われたと思っていいのか」
「え……」
「お前に恋い焦がれた俺の気持ちは、お前の抱く感情と同じだと、そう思って構わないか」
それは、つまり。
「俺はお前が好きだ。お前の心は誰を見てる?」
好き。
口に出してしまえば苦しみが増すだけだと思ったから、ずっと胸の奥にしまっていた単語。
ようやく空気に触れることが叶うときが来た。
千影は涙で飾った瞳を真っ直ぐに注ぎながら、根底からの想いを音にした。
「真昼のことが好きだから、真昼だけを見ているよ」
七宵御伽の結末は、王と妃の末長い幸せ。
砂漠の国に咲いた恋物語も、同じ結末を迎えることは間違いなかった。
fin.
- 15 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]