今は無人の客席も、次の街に着けば瞬く間に新しい顔で埋め尽くされる。

けれどその無数の観客の中に、己の求める人はいないのだ。

それは今の千影にとって、無人の客席と何ら変わりない。

真昼に焦がれた千影にとって、彼のいない客席に意味はない。

誰もいない客席を、これから何度目にすればいいのだろう。

何度、目にしなければならないのだろう。

考えれば考えるほど、内側に詰まった想いは膨れ上がり、息が詰まった。

千影はぐっと唇を噛み締めると、作業を続ける男たちに声をかけた。

「ごめん、みんな。最後に一曲だけ舞わせてもらえないかな」

踊子の様子に異変を感じていたのだろう。

彼らは互いに目を見合わせると、何も言わずに天幕を後にしてくれた。

その気遣いに口の中だけで礼を呟くと、千影は音もなく舞台へと上がった。

客席へ視線を向ければ、今度こそ完全に人のいなくなった世界が広がっている。

誰もいない、彼のいない、空虚で色のない世界。

七宵の夢物語の鮮やかさを知ってしまった少年にとって、己を取り巻く現在はひどく色褪せて見える。

けれど、それでいいわけがなかった。

己は踊子。

観る者に一時の夢を与える存在。

こんな心のままで舞い続けてはいけない。

だから。

ここにすべて置いて行こう。

砂漠を抜け出してしまう前に、真昼への想いを。

胸が詰まるほどの、恋情を。

楽の音もない舞台で、千影は動き出した。

舞うは七宵御伽第六夜。

己の立場と本音の狭間で懊悩しながらも、殺すことの出来ない圧倒的な恋心を叫ぶ妃の悲哀。

頑なな自己に訪れた変革に戸惑い、胸に灯った正体の知れぬ熱情に怯えつつも捨て去れない王の苦悩。

七宵御伽は理解しているつもりだった。

自分は完璧に舞うことが出来ていると自負していた。

何て浅はかだったのだろう。

妃の涙にも、王の心にも、今ほど寄り添えたことは過去にない。

千影は初めて、彼らの気持ちを真に理解したのだ。

「っ……!」

目蓋を下ろせば広がる漆黒。

艶めく夜よりも深く、極彩色の煌めきを放つ唯一絶対の色。

もう二度と、あれほど鮮やかな黒には出会えない。

さようなら。

決別の意志を込めて舞いきった千影は、荒い呼吸を繰り返しながら舞台に一滴ばかりを落とした。

手を打ち鳴らす音が鼓膜を叩いたのは、次の瞬間。

「え……?」

弾かれたように目を開けた少年は、導かれるが如くその視線を天幕の入り口へと定めた。

この一カ月、何度となく目を向けては落胆を繰り返したその場所に、人影はあった。

照明が落とされているために、その姿は判然としないけれど、千影は確信にも近い予感に声を失くした。

「相変わらず、お前の舞いは見事だな」

凛とした低音が静寂を破る。

人影は長い足を踏み出し、舞台へと歩いて来た。

闇から浮かび上がり明瞭となった姿を舞台上から捉え、千影は目を見開いた。

「悪い、遅くなった。千影」

あの夜と同じセリフを口にして、少年へ手を差し伸べたのは、砂漠の王。

否、千影が恋い焦がれ続けた男だった。

「七宵御伽に通うために政務を調整していたんだが、霜月の一件で予定が変わった。この一カ月、朝から晩まで仕事漬けでお前が国を出ていたのも知らなかった」

真昼は持ち上げた手をそのままに、身動ぎすら出来ない千影へ事の次第を語り聞かせる。

「すべて片が付いたのは今朝で、ようやく「シェヘラザード」が旅立ったと知った。すぐに追ったつもりだったんだが……一カ月も待たせてしまって悪かった」

返事をしたかった。

「そんなことはない」、「貴方は自分の務めを果たしただけだ」と、言いたかった。

「会いに来てくれて嬉しい」、「追いかけて来てくれただけでいい」と、伝えたかった。

それなのに喉は塞がったままで、どんな言葉も胸に浮かぶばかりだ。

伸ばされた手は、まだ下がらない。

「いや、違うな。お前が待っていたなどと考えるのは俺の傲慢だ」

違う、そんなことはない。

待っていた、ただひたすらに真昼を待っていた。

想いは内側に蓄積されつづけ、心はぎちぎちと悲鳴を上げる。

「待っていたのは俺だ。お前に会いたくて、会えるときを願って、ずっと待っていた。俺はお前に会いたかった」
「っ……!」

心が破裂した。

指の長い骨ばった手を掴むや力強く引き寄せられ、千影は真昼の首に抱きついた。

「傲慢なんかじゃない、俺だって会いたかった。貴方にずっと、会いたかった!」
「千影」
「会えない時間が苦しくて、なんで苦しいのか分からなくて、分かったらもっと苦しくなって……会えないなら忘れようと思ったのに!」

背中と腰を捉えた腕が、華奢な体躯を強く抱きしめる。

溢れだす千影の想いを受け止めるように、しっかりと。

「会いに行けない自分が悔しかった、貴方を探す自分が情けなかった、諦められない自分が嫌いだった」
「あぁ」
「分かりたくなんてなかった、ずっと分からないままでいたら苦しくなんてならなかった。でも、分からないままじゃいられなかった」

もっと早く気付いていれば。

このままずっと気付かずにいれば。

何度思ったことだろう。

溢れる感情は瞳からはらはらと零れ落ちた。

首筋を濡らす感触に真昼は腕を緩め、頬に軌跡を作る千影の顔を真っ直ぐに捉えた。

千影が知る中でもっとも美しい黒曜石の双眸が、心を貫く。

「この涙が俺のせいだとしたら、俺は報われたと思っていいのか」
「え……」
「お前に恋い焦がれた俺の気持ちは、お前の抱く感情と同じだと、そう思って構わないか」

それは、つまり。

「俺はお前が好きだ。お前の心は誰を見てる?」

好き。

口に出してしまえば苦しみが増すだけだと思ったから、ずっと胸の奥にしまっていた単語。

ようやく空気に触れることが叶うときが来た。

千影は涙で飾った瞳を真っ直ぐに注ぎながら、根底からの想いを音にした。

「真昼のことが好きだから、真昼だけを見ているよ」

七宵御伽の結末は、王と妃の末長い幸せ。

砂漠の国に咲いた恋物語も、同じ結末を迎えることは間違いなかった。


fin.




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