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虚空を舞う、純白の紗。
まるで意志を宿した生命が如く翻る、軽やかで優美な薄絹を絡め取る長い腕。
ふわりと弧を描きつつ体を旋回させれば、シャンシャンと耳に心地よい繊細な音色が、足首の鈴から響き渡る。
華奢な肢体を包むは紗と揃いの白い衣装で、そここに備えられた灯りの橙によって複雑な陰影が生まれれば、舞台上には幽玄なる世界が広がっている。
楽の音に合わせて舞い踊るたった一人に、観客席に座る誰もが魅了され取り込まれてしまう。
呼吸すら忘れたように一心不乱に視線を注ぐ様は、物語のクライマックスから目を離せないと全身で訴えているようだ。
七宵御伽、終夜。
降りかかる試練を乗り越えた王と妃は、ようやく素直な想いを通わせ合い、おとぎ話らしく末長く幸せに暮らす。
最初から決められたハッピーエンドではあるものの、観客の中には涙ぐむ者も少なくない。
舞手の技量によって、場が白けるか感動の渦を生み出すかは決まって来るのである。
王と妃の輝かしい未来を暗示するかのように、千影は天井の照明へ向けて高々と右の腕を上げた。
完璧なタイミングで音楽が止まり、同時に見世物小屋の内側で拍手が爆発した。
打ち鳴らされる数多の手が雷のような音を作り、湧き上がる歓声はしきりに踊り子の名を呼ぶ。
ピーと鳴らされた口笛に、一礼をしていた少年はゆっくりと顔を持ち上げて、客に向かってにこやかな笑顔で手を振る。
さりげなく窺った観客席の最後尾、出入り口のすぐ脇は、無人だった。
「お疲れ、千影。今日もよかったぞ」
「最後ちょっとトチりそうだったけどな」
舞台衣装を脱ぎ去り、鏡の前で化粧を落としていると、自室の仕切り布を捲って木崎が声をかけて来た。
苦笑交じりに応じると、彼は少しばかりに心配そうな顔になる。
過保護な彼だが、これは珍しい反応だ。
ミスを示唆したのだから、注意するならば兎も角、気遣わしげな目になるなんて驚いた。
「どうしたんだよ」
「……大丈夫か?お前」
「え?」
木崎らしからぬ遠慮がちな問いに思わず首を傾げると、座長は僅かばかりの逡巡のあと、続きを口にした。
「真昼のこと、気にしているんじゃないのか」
出された名前に、千影の胸の中心がトクンッと脈を打った。
この街に、真昼はいない。
もう一月も前に、王の生誕祭で賑わっていた街は出てしまった。
今は彼が治める国でもなく、隣国の観光都市で興業を行っているところだ。
無事に千秋楽も迎えたことだし、明日にも次の街へと旅立つ予定になっている。
向かう先は北。
南に広がる砂漠の国からは、益々遠ざかる。
胸を過った冷たい風を無視して、千影は苦笑を零した。
「もう随分前のことだろ?それに、俺を避けたのは真昼の方だよ」
「……」
気にするわけがない、と平静を装う少年を、木崎は痛ましげに見つめた。
違法オークションから助けられた翌日から、真昼は見世物小屋に現われなくなった。
いつも決まった場所で、こちらを見つめていた黒曜石はどこにもなくて、嫌な予感に苛まれた。
城を訪ねようにも、旅芸人風情が国王に面会など出来るはずもなく、その後一度として彼の姿を見ぬまま街を立つしかなかった。
忘れよう。
決めたのはいつだったか。
目の前の演技に集中して、余計なことはすべて頭から追い出せば、きっとこの胸の痛みも消えてくれるはずだと思った。
あれは一時の夢、七宵の幻。
千影の日常とはかけ離れた、遠い蜃気楼のようなものだったのだ。
だから忘れよう、忘れよう。
それなのに、今日もまた、千影は視線を向けてしまった。
感動の終夜に湧き立つ観客を飛び越した、天幕の入り口に。
いるわけがないと分かっているのに、理解しているのに、そこに彼が立っているのではないかと淡い期待を殺し切れず、見てしまったのだ。
求める色がなかったことを思い出し、心臓を突き刺す鋭利な痛みが蘇る。
会いたい。
湧き上がる想いはたった一つ。
「千影?」
ぐっと黙り込んだ少年を、男は気遣う声音で呼びかけた。
千影は返事もせずに立ち上がると、木崎の脇をすり抜けて走り出した。
いてもたってもいられなかった。
じっとしていては何かが壊れて、溢れだしてしまいそうだった。
真昼に会いたい、会いたくて堪らない。
全身に満ちて行く感情を、どう抑えればいいのか分からなくて、舞台に続く仕切り布を勢いよく開けた。
すべての演目が終了した舞台は閑散としていて、客の一人も残ってはいない。
変わりに、一座の作業員が客席の撤去を始めていて、舞台の解体作業も間もなく始まるようだ。
こちらに気付いた一人が、にこやかに挨拶をして来た。
「あ、千影さん。お疲れ様です」
「……」
「千影さん?」
「お疲れ……」
小さな返答に首を傾げる相手を気にかける余裕はなかった。
胸が張り裂けそうだ。
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