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初めは己の立場と素直な想いの狭間で苦悩する、妃の心。
優美かつ華麗に、そうして切なさを込めたもどかしくも鮮烈な恋情を、舞台上で表現すれば、観客すべての意識がこちらに集まるのが分かった。
皮膚に突き刺さる数多の視線など、人前で踊ることに慣れた千影には気にもならない。
それどころか、より深く物語の中へ引き込もうと、不可思議な魅力を発揮し始めるのだ。
王の舞へと移る頃には、すべての人間が千影の世界に呑まれていた。
頑なな胸に訪れた、確かな変化。
己の気持ちに戸惑い、どこに真実があるのか見失いそうな危機感は、王の心を脆くする。
妃を見れば鼓動が弾み、傍にいれば微笑みが零れる、この想いの名は何と言うのか。
狂おしいほどの感情に苛まれる王の舞は、繊細でありながらも大きく身体を動かす。
今にも決壊しそうな胸の内にいっぱいに詰まった、なけなしの矜持、雄々しさ、判然とせぬ滾り。
千影は舞台の上で舞い踊り、やがて客席の方へと流れて行った。
客は愚か、オークション側の人間さえ誰も何も言うことはなく、彼らは一様に千影の舞を酔ったように見つめ続けている。
楽と舞、物語を構成するあらゆるものが、すべての者の脳裏から現実を乖離させていたのだ。
会場の外へ繋がるであろう扉へと続く花道を、少しずつ。
けれど確実に進みゆく。
急いてはならない。
焦燥募る内側のまま動いては、観客たちは七宵の魔法から目を覚まし、千影を檻へと連れ戻してしまうだろう。
完璧な舞でもって逃走を図ろうとする千影は、第六夜がクライマックスを迎えたところで扉へと到達した。
あとは、ドアノブに手をかけて、全力で走り抜けるばかり。
目論見通りに行ったと、口端に会心の笑みが滲んだときだった。
「なにやってんのさ!」
ヒステリックな金切り声が、切なくも鮮やかな恋物語に酔い痴れるオークション会場を貫いたのである。
どうにか成立していた危うい均衡が、一瞬にして破裂する。
噛まされていた猿轡を毟り取り、暗く燃える憎悪を立ち昇らせた哉琉の姿を、舞台袖に見つけた千影は、真っ白になった頭に鳴り響く警告音に息を呑んだ。
不味い。
「あ?あ……ち、千影が逃げるぞ!」
「誰か捕まえろっ!!」
次々と弾ける泡のように、正気に返った人間たちは、いつの間にやら会場の扉に手をかけている踊り子に、目を見開いて怒鳴り声を上げた。
近距離で目にした千影渾身の舞に魅了された、オークションの客までもが席を立ち、少年を手に入れんと動き出す。
幻想世界から完全に抜け出し切れていないのか、迫りくる面々の眼はどこか鬼気迫るものがあって、思わず身体が硬直した。
逃げなければ。
分かっているのに、ぶつけられる明確な欲望に手足を絡め取られて動けない。
すぐ目の前にある自由への門を、開けることすら叶わない。
舞台上で注がれる感嘆の念とはまるで異なるそれは、禍々しく本能的で悪寒を呼んだ。
怖い。
誰か。
怖い。
誰か。
「……ひ、る」
焦燥と恐怖と混乱に溺れかけたときだった。
千影に向かって伸ばされたいくつもの手を牽制するように、鋭い銀の煌めきが一閃した。
「え……」
背後から回された長い腕が、後方へと引き寄せる。
とんっと軽い衝撃と共に背中がぶつかった。
扉よりもずっとあたたかで優しい、何かに。
「悪い、遅くなった。千影」
頭の上に落とされたその低音は、耳に馴染んだ声色で少年の名を紡ぐ。
「ま、ひる……?」
信じられぬ思いでたどたどしくも呼びかければ、肩に置かれた手の力が強くなった。
正解だとでも言うように。
「国家保安局だっ、全員止まれ!」
開け放たれた扉から現われたのは彼一人ではなく、次々に駆けこんで来る青い制服の男たちが高らかに宣言した台詞は、会場に漂う七宵の残り香を綺麗に吹き飛ばし、違法行為に携わる者たちに現実を突きつけた。
会場に集った数多の人々は、我先に逃げ出そうと蜂の巣をつついたような騒ぎである。
誰一人逃がすものかと、保安局と名乗った青い制服は次々に会場へと乗り込んで、そここで乱闘が始まった。
椅子やテーブルが倒れる振動、男の罵声と女の悲鳴、打ち鳴らされるシャムシールの剣戟。
先刻までの危機的状況とは、まるで異なる眼前の光景は、しかし確かな腕に包まれた千影には遠い出来ごとだ。
騒然となった辺りの様子など、彼の中には入って来ない。
入って来るはずがない。
極限状態から間を空けず、疑念に突き落とされたのだから当然だ。
視線を下げれば目に入る、黒衣の袖。
「……」
すぐそばにある熱の持ち主は、この数日間己と共にいた唯一の守護者であるのは間違いない。
なのに。
「客も一人残らず捕縛しろっ。被害者はすぐに保護だ」
慣れた様子で保安官たちに指示を飛ばす、凛と響く彼の声を間近で耳にすれば、振り返ることは不可能だった。
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