◇
今、目の前の男は何を言った。
意味が分からなくて木崎に目を向けようとする前に、座長は間垣の脛に爪先を叩きこんだ。
「だっ!?」
「黙ってろバカ」
容赦のない一撃だったらしく、男は大きな身を縮めて痛みに耐えている。
役人相手に何と言う暴挙かと思ったが、間垣は怒る素振り一つない。
俄かには信じがたい力関係は気になったが、それ以上に二人の関係を知りたくはない思いが強くて、千影の唇は用件のみを紡いだ。
「あのさ、これから夜店見て来ようと思うんだ」
「今から?平気なのか」
「大丈夫、真昼について来てもらうから」
脅迫状を警戒しての問いかけに、問題ないと返す。
だが、それに反応したのは木崎ではなく、寸前まで声を殺していた保安官だった。
「え?真昼?」
「なんだ、知り合いか?」
復唱された護衛の男の名前に、座長が問い返すと、間垣は曖昧な表情で首を傾げる。
何とも言い難いその顔は、やがて「まさか」と言うような苦笑に落ち着いた。
「いや、たぶん人違いです。あんまりいない名前だけど、フミさんたちが知ってるはずのない人ですから」
「そう、なんですか?」
「うん。だからきっと、人違いだよ」
何かが引っ掛かった。
けれど、その何かが分からない。
千影は今一つ要領を得ない思いを抱きながらも、木崎の了承をもらい彼の部屋を後にした。
胸の奥でどこかがずれている気がする。
先ほどの間垣の表情が、いやに頭から離れない。
当人を知っている男が人違いだと言うのだから、人違いなのだろうけれど、なぜ間垣は千影の知る「真昼」を見もしないで「人違い」と断言することが出来たのだろう。
頭の中でぐるぐると考えながら、真昼たちが待っているであろう場所まで歩いて行った。
しかし、そこには誰もいないではないか。
「あれ……」
さっきまでは確かに、ここに滸と二人立っていたはずなのに。
自分の部屋を覗いてみるが、やはり無人。
何も言わずに消えてしまうことなど、これまで一度だってなかったから、千影は心配になった。
舞台の方にでも行ったのだろうか。
取りあえず、周辺を当たってみようと足を動かしかけたときだった。
「あの、千影様?」
「え?あ、はい」
少し甘い声音で問いかけられ、そちらを振り返った。
立っていたのは、良質の紅茶にミルクを溶かしこんだような、柔らかな色合いの髪を持つ、愛らしい少年だった。
ぱっちりとした瞳と、やや上向きの鼻、ぽってりとした唇が小悪魔的な魅力を演出している。
しかしこれほどの美少年を、この一座で見たことがあっただろうか。
「どちら様ですか?一座の人間じゃないですよね」
「あ、僕は真昼様にお仕えする、哉琉と言います。真昼様から言伝を預かっていて、貴方をお待ちしていました」
「真昼から?」
探している自分の名前を出されて、ほっと胸を撫で下ろした。
おかしな話しだが、急に姿がなくなったことに、随分と不安になっていたらしい。
まるで依存しているようだと、内心だけで陰鬱な気持ちになった。
「それで、真昼は何て」
「ご自分の経営されている店に貴方をお招きしたいと仰って、先に用意に向かわれました。僕は、貴方をご案内するよう申しつかっています」
千影は少しだけ驚いた。
滸だけでなく多くの部下を抱えている様子だったが、彼は自分の仕事に関することを一切千影に明かそうとはしなかったのだ。
時折、滸が仕事の指示を仰ぎにやって来ていたが、先ほどのように千影は席を外すようにしていたし、真昼もそれを望んでいるのが分かった。
まさか、彼の店に招待されるだなんて。
真昼との距離が狭まった喜びが、じんわりと身内に広がり、自然と笑みが浮かぶ。
「千影様?」
「すいません。案内をお願い出来ますか」
「はい、参りましょう。真昼様がお待ちです」
先導する哉琉の後を追い、テント小屋を出た。
メインストリートに続く中央広場は、夜の市が開かれ人通りが多い。
酔客の喧嘩の声や、笑い声、客引き、杯のぶつかる悲鳴、陽気な音楽、様々な音色でいっぱいだ。
人ごみのなかを、哉琉はすいすいと優雅に進んで行く。
小柄を生かした上手い進み方に、感心した。
流れに抗うことはないのに、洗練された体捌きで隙間を縫って行く。
爪先から踏み出される音のない歩き方に、気がついた。
「あの、哉琉さん」
「どうしました?真昼様のお店まで、もう少しですよ」
周囲の喧騒に負けぬよう、二人ともやや声を張る。
いつの間にか出来てしまった彼との距離を詰めて、千影は言った。
「いえ、あの、哉琉さんももしかして、踊りをやっていたりしませんか?」
「え?」
「違ったらすいません。でも、歩き方が踊り手のものだったので」
それも、随分と熟練した上級者の踊り手。
哉琉はじっと少年を見上げるや、返事をせずにクルリと背を向け、再び歩き出す。
先ほどよりも早い進行に焦った。
「あ、あの哉琉さんっ」
「そうですよ。僕も貴方と同じ、踊り子です」
「やっぱり……」
こちらを振り返ることなく、また足を止めることなく、先を行く踊り子は返事を寄こした。
失礼なことでも言ってしまったかと、不安だっただけに安堵の息だ。
ただ、哉琉の歩調は緩まない。
彼よりはずっと上背がある千影は、少しだけ手こずりながらも、持ち前の身体能力で哉琉の後をどうにか追い続ける。
もうテント小屋はおろか、中央広場さえ見えない。
「最初に、真昼様に仕える者だと言いましたよね、僕」
「哉琉さん、少し速度を落として……」
「僕ね、真昼様のお抱えの踊り子だったんだ」
哉琉はこちらの言葉を遮って、口を動かし続けた。
そこから紡がれたセリフに、心臓が不規則になる。
ドクン、と。
薄ら寒い、鼓動。
「召し抱えられたのは先代のときだったけど、真昼様は変わらず僕を専属の踊り子にしてくれた。呼ばれるのは、貴賓があるときくらいで……。でもそれでよかった」
「哉琉、さん」
「生誕祭のときは、例年、毎夜のように宴が催されていたから、そのときは真昼様も僕を連日呼んで下さるだろうって思ってたんだよ」
哉琉の声に潜む、怜悧な意志は千影の肌をびりびりと震えさせる。
最早、彼の後について行く気にはなれず、ついに足が止まった。
「どうしたの、真昼様のお店はもう目と鼻の先だよ。急ぎなよ」
「俺は行きません」
「なに言ってるの?そんなの許されるわけないじゃない」
あれだけ夢中に進んでいたにも関わらず、相手は千影の歩が止まったことにすぐさま気がついた。
こちらを振り返った眼には、今やはっきりとした憎悪の焔が揺らめいている。
煌々とした双眸の奥の、悪意の色。
悪意を溶かしこんだ、真っ黒な焔。
瞬間、千影の中ですべての事項が繋がった。
内心だけで舌を打ち、後ずさりかけるも手を掴まれた。
「駄目だよ。真昼様のお召しを無碍にするなんて、何様のつもりなわけ?」
「真昼は、いないだろう」
「いようがいまいが関係ないでしょう?踊り子風情、主人のお呼びとあらば、当人がいようがいまいが舞いを披露しに行かなきゃならないんだよっ」
「なんだよ、それ。離せっ!」
やけに熱のこもった恫喝に、相手の体格など無視して腕を振りほどいた。
木崎に叩き込まれた護身術は、千影の身を守るのに大いに役立つ。
勢い余って地面に倒れ込む哉琉に構わず、踵を返そうとする。
首筋に重い衝撃が走ったのは、地面を蹴ると同時のことだった。
「っ!?」
容赦のない一打に、ぐらりと視界が歪む。
己の体を支えていることも出来ず、地面が迫るのが暗黒に塗り潰されていく目の端に映った。
意識が、途切れる。
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