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一度受け入れてしまえば、彼の要求は次々と胸に入り込む。
恐れ怯える必要はどこにもないと、震える鼓動が理解する。
湧き上がる想いのまま、神楽はふわりと自然な笑みで応えた。
「――えぇ、そうですね。私は今、ここにいます」
神楽は今、碧と共にあるのだ。
心臓の上に置かれた碧の掌が、さらりと素肌を撫ぜる。
まるで労わるような手つきだ。
そう思ったのも束の間、胸の飾りを抓まれた瞬間、神楽は幸福な感傷から抜け出した。
「ちょっ、なにを!」
「理解したんなら話は早ぇ。今、どういう状況か分かるだろ?」
碧は纏う空気も表情も一変すると、常と同じくにやりと口端をつり上げた。
そうだ、この男は「こういう」ヤツだった。
「こういう」最低な男だったのだ。
甘く昂ぶった心が一気に冷却し、神楽はそこらの士官ならば震え上がるような、冷徹な視線で部下を睨み上げた。
「今、この部屋には私たち二人きりで、半身を剥かれた私の上には即物的な色情狂がいる、ということですか」
「それだけ分かってりゃ十分だ」
「いいえ、不十分です。貴方は今、命の危機に瀕していると気付くべきです」
神楽の袖口から飛び出したナイフは、ひたりと碧の喉元に身を寄せた。
にっこりと完璧な笑顔で、最後通牒を告げる。
「貴方のいる今は、こういう状況ですよ。碧大佐」
「……全部脱がしとくべきだったか」
碧はさして惜しむ風でもなく、くくっと喉を震わせると神楽の胸から手を引いた。
この最低な男は、神楽の嫌がることだけは決してしない。
二人共に立ち上がり、軍服についた埃を払い落とす。
自分の無残な格好を見下ろして、神楽は小さく嘆息を落とした。
犯人に文句をいう気はないが、釦を縫い付ける作業は億劫だ。
予備のジャケットは執務室に置いてあっただろうか。
神楽に先駆けて床に散らばった金釦を拾った男は、しゃがんだまま神楽に手を差し出した。
「ほら、これで全部だろ」
「有難うございます、わざわざすみませ――」
受け取るべく伸ばした手は、何も持っていない碧の手に引き寄せられた。
油断していたところで仕掛けられ、神楽の身体は足払いのときと同じく簡単に傾ぐ。
掬い上げるように口付けられ、心臓がとくりと跳ねた。
「教えてやっただろ。キスするぞ、ってな」
戯れのような接触に満足げな笑みを見せて、碧は言葉もなく立ち尽くす神楽のために、資料室の扉を開いた。
「会議まであと三十分だぞ、中将様」
fin.
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