「こっち見ろ。目ぇ逸らすな」
「……」

最後の意地のように視線を逃がし続ければ、焦れたような舌打ちが鼓膜を打った。

視界の端に影が映り込み、そうしてリムレスの眼鏡が奪われる。

映る世界が滲む。

やがて、一つ息を吐く音が届いた。

「言ってやろうか。お前が誰と何をして来たか、どうだっていいって」
「っ!」
「誰に縋って、誰に媚びて、誰に足開いてようが、どうだっていいって。それが過去なら、全部どうだっていいって、教えてやろうか」

囁くような低音に、心臓が引き絞られた。

胸の拍動が重くなる。

「その過去ってやつが今のお前を縛らなきゃ、どうだっていいんだよ」

痛い。

胸の奥深い場所が、痛くて堪らない。

異なる二つの奔流が、神楽の深い場所で鬩ぎ合い、死に至らしめるほどの激痛を生み出している。

その正体を、神楽はすでに理解しかけていた。

「見ろ、神楽」

碧の要求は、簡潔だ。

何も隔てず、ただ「見ろ」と。

今、神楽の目の前にあるものだけを「見ろ」と。

視線を合わせたからといって、どうなろう。

眼球を少し動かせばいいだけの話で、再三の要求に抗い続ける理由はない。

なぜ、躊躇してしまうのだろう。なぜ、逃げてしまうのだろう。

胸の痛みはもはや神楽の息の根を止めかけていた。

「キスするぞ」

予想外の脅しに、神楽はぎょっと碧に焦点を据えてしまった。

「あ……」
「遅ぇんだよ、さっさと言うこと聞いとけ」

翡翠の輝きは、すぐそこにあった。

鼻先が触れ合うほどの距離で、神楽の宵色の瞳を覗いている。

揺らがぬ眼差しが有するのは、快い熱情。

蜜のように甘く濃密なのに、真綿のように穏やかで優しい想いの温度。

心臓の激痛が溶けるように消え去って、神楽はようやくその正体を自覚した。

「いつだって見とけ。確認しとけ。お前がいる場所は、今だ」

過去から続く、現在。

けれどもう、神楽の現在を過去が縛ることは出来ない。

神楽の立つ場所は、碧がどうでもいいと言った過去ではなく、碧の瞳が見据える現在なのだ。




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