「よぉ、疲れてんな。それとも襲われてぇのか」

突然、間近で聞こえた揶揄含みの低音に、弾かれたように目を開ける。

辛うじて肩が跳ねることはなかったが、心臓はどくどくと騒がしい。

自身の動揺を悟られまいとして、神楽は執務机に腰かけこちらを見下ろす男を睨み上げた。

「上官の部屋に許可もなく入るのは、些か無礼が過ぎませんか。碧大佐」
「そりゃ悪かったな、中将様。ほら、例の報告書だ」

男は反省の欠片も見えない謝罪をすると、神楽の鼻先に書類束を突き出した。

立場を弁えぬ分不相応な態度に、怒りを通り越して呆れ果てる。

重量感のある吐息を見せつけるように吐きだせば、相手は面白そうに翡翠色の瞳を眇めた。

碧大佐は神楽の直属の部下にして副官に当たる。

文官の補佐には珍しい屈強な武官で、その戦績は輝かしいものばかり。

ジェノサイド・ランスの異名は、国内外問わず広く知られており、イルビナ最強の呼び声も高い。

傭兵出身の成り上がりでなければ、この先の階位に足をかけることも出来ただろうに。

未だ貴族制度に縛られるイルビナ軍では、ここで打ち止めとなるのは確実だった。

「なんだ、また何かあったのか。横領事件も後は裁判だけだってのに」
「……もし良家の出であっても、この態度じゃ出世はできませんね」
「あぁ? 何の話だ」
「貴方を不敬罪で訴える日は近い、という話ですよ」

先ほどの士官に向けたものと同じ、怜悧な微笑で釘を刺すと、相手はくつくつと喉の奥を震わせた。

実行する気のない脅し文句であると、分かっているのだ。

相手は後ろ盾を持たない直属の部下。

やろうと思えばすぐにでも処断できる。

だが、神楽はこれまで一度として碧を罰したことがなかった。

有能な人材を手放すような愚かな真似を、するわけがない。

神楽は諦めの滲む表情で、もう一度だけ深いため息をついた。

「例の横領事件ですが、査問委員会のやり直しを要求されました」
「は? やり直す必要がどこにある」
「あるんでしょう、鳳来大佐には」

堅い声音で告げた名前に、碧の表情も険しくなる。

「面倒くせぇ……」
「えぇ、相手は四大貴族です。軽率なことは出来ません」

鳳来家はイルビナ四大貴族の第三位に就く名家だ。

対する翔庵家は、爵位も領地も平均的な中流貴族。

階級こそ中将の神楽が勝っているが、実際の力関係は何とも言い難いものがある。

だからこそ、先ほどの士官は怯えながらも念を押して行ったのだ。

「誤算でした。まさか鳳来大佐自ら動くとは」
「重要な駒でもいたのか?」
「さぁ、そうかもしれませんね」

今回の不祥事に関与した全員の身辺を洗ったところ、一人だけ気になる士官がいたのは事実だ。

背後に鳳来家の影がチラついたため、横領事件とは別件であるのを理由に調査を打ち切った。




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