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イルビナの春は美しい。
蒼天からふり注ぐ琥珀色の日差しが、草花の芽吹いた大地を包み、生きとし生けるすべてのものに活力を与える。
吹き抜ける風には甘い花の香りが織り込まれ、あたたかな気温と共に誰もの心を弾ませる。
だが、窓の外に広がる華麗な光景は、この部屋に何の影響も及ぼさない。
イルビナ軍中将の執務室は、季節に反して極寒の冷気に支配されていた。
「よく聞こえませんでした。もう一度、言って頂けますか」
神楽=翔庵中将は、繊細な美貌に完璧な微笑を乗せて言った。
弧を描く口元とは対照的な、感情を排した冷徹な宵色の瞳に見据えられ、報告に来ていた士官がビクリと身を揺らす。
突き刺さる視線から逃れるように、手にした報告書へ目を落とし、緊張と恐怖で今にも引っくり返りそうな声で、先ほど告げた内容を繰り返した。
「先日の一件における査問委員会について、鳳来大佐から再調査の請求が、その……」
「あの件については、すでに調査が終了しています。査問委員会を再度開いたところで結果は同じ、軍法会議にかけるのは免れません。私に無駄な時間を使わせるおつもりですか」
畏縮する士官に怜悧な声音で追い打ちをかける。
笑みを深めて威圧感を醸し出せば、血の気の引いた顔がついに土気色になった。
言葉を失くした相手に鉄壁の笑顔を向けたまま、神楽は内心だけで舌打ちをした。
先日、士官数名による横領事件が発覚した。
軍の保有する武器を含めた装備品が、闇マーケットに横流しされていたのだ。
それだけでも問題なのだが、事が明るみになった経緯が最悪だった。
横領品を輸送していたトラックが、民間人を撥ねてしまったのである。
当初こそ単なるひき逃げ事件として捜査されていたが、軍内部の不祥事が発覚するや事態は一変。
民間人を巻き込んだ難事の収拾は、神楽に一任された。
事件の全容解明と首謀者及び関与していた士官への厳正なる処置。
被害者への真摯な対応と国民への詳らかな説明。
そして、闇マーケットの摘発に伴う関係貴族との裏取引と、巧妙な情報操作による世論の形成。
本領発揮とばかりに手腕を発揮した神楽は、表裏のどちらにおいても完璧な働きをしたはずだった。
ここに来て、横やりが入らなければ。
「鳳来大佐からの申し入れですので、くれぐれも慎重なご判断をお願い致します」
退室間際に告げられた士官の言葉を噛みしめて、神楽は眉間に深い縦ジワを刻んだ。
「まったく、面倒な真似をしてくれますね」
心底うんざりした様子で呟きながら、頭痛を堪えるように瞼を下ろす。
腰かける椅子の背に珍しく身を預ければ、キシリと微かな音が鳴った。
神楽の気迫に圧倒されていた士官が、なぜ念を押すような発言をしたのか。
答えは一つしかない。
再調査を要求した男は、ある意味で神楽よりも上位に座す人間だった。
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